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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

二分法の境界は線ではない

2023/05/23
世の中を看る 0
原理講論 キリスト教
2023-05-23 182143

河合隼雄の『
とりかへばや、男と女』。タイトルの「とりかへばや」は平安朝に書かれたとされる物語『とりかえばや』に由来してゐます。

権大納言に息子と娘があつた。ところが息子は控えめで優しく、女の子の遊びを好み、娘は反対に、大胆で、男の子のやうに振る舞ふ。父はそのうち変はるだらうと思つてゐたが、ふたりの振る舞ひは変はらない。仕方なく、娘は男として、息子は女として育てると決意するのです。

物語のテーマとしては珍しく、文学としての評価はあまり高くないやうです。しかし河合氏はこれを素材として、「男と女の二分法」についてさまざま論じる。

「二分法」は我々人間の意識がこの世界を認識、分析する上で、極めて有効なツールです。ものごとを漫然と眺めてゐたのでは把握ができないから、例へば、善と悪に二分する。あるいは、自分を見るときに、心と体に二分し、誰かと関係を結ぶ際には自と他に二分する。そしてもちろん、男と女も強烈な二分法のひとつです。

このやうにものごとを二分すると、把握もしやすく、それによつて近代においては自然科学も大いに発展した。ところが、ものごとはそんなふうに画然とふたつに分けられるものか。よくよく見ていくと、ふたつを分けるのは一本の境界線のやうに思つてゐたのに、さうではない。幅を持つた「領域」だといふことが分かつてくるのです。

このことは、男女についても当てはまる。つまり、男女は一本の線で画然と分けられると思つてゐたら、両者の間には実は「領域」があるのです。その「領域」の中に、LGBTQと呼ばれる人々がゐる。

彼らは、
「体は男のやうだが、心は女です」
と言つたり、
「私は男だが、女より男の方が好きです」
と言つたりする。

従来は、男女を分けるのは一本の線のやうに強引に見なして済ませようとしてゐたのに、だんだんと、それは誤魔化しだといふ主張が強くなつてきた。それが現状でせう。

河合氏は、この男女の境界をどう考へたらいゝかといふことについて、いくつかの参考例を出してゐます。

例へば、プラトンの『饗宴』に出てくる「男女両性具有者の神話」

昔、人間には男女の他に第三の種族がゐた。両性具有です。彼らには手が4本、足も4本あつて、恐ろしい強さを持つて、神に挑戦するほどになつた。そこで神々は会議を開き、彼らの傲慢を改めさせるため、ふたつに切断した。

そこで彼らは男女別々の存在になつたが、元の一体への憧れを持ち続け、合体しようと抱擁するが、活動不能となつて死に絶える。そこでゼウスは、男女の性器をお互いが抱擁したときに合体できるやうにし、そこで新しい人間を生産し得るやうにした。

また、キリスト教の外典に「トマス福音書」と呼ばれるものがある。その中で、イエスは次のやうに語つてゐるのです。

もし汝らが二を一にするなら、… 汝らが男と女を一つの性にするなら、そのとき汝らは〈王国〉に入るであらう。

スウェーデンボルグも、これと似たやうなことを書いてゐます。

天界では、二人の配偶者は二人の天使とは呼ばれないで、一人の天使と呼ばれてゐる。

日本神話を見ると、そこには多くの神々が登場する。しかし、イザナギ・イザナミが出てくるまで、それまですべての神は「ひとり神」であつたのです。

これらの例には、ひとつの共通点があります。

我々が今現に生きてゐる現象界においては、男女の二分法が適用されるやうに見えるが、その奥にある、より本質的な世界では、その二性は分かちがたくひとつになつて存在してゐる。

河合氏は、かう指摘します。

「我々は二分法によつて思考するのが得意である。しかしそれは、二分法の病とも言へる」

原理講論』からも、関連すると思はれる箇所を引いてみませう。

神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ(る)。(「創造原理」第1節)

したがって、人間においても、男性には女性性相が、女性には男性性相が各々潜在しているのである。(同上)

今こゝで、我々の在りやうを、肉体、精神、魂の三つのレベルに分けてみませう。

肉体のレベルでは、男女は(かなり)画然とふたつに分かれる。生まれたときすでに、どちらかに決まつており、基本的には変へやうがない。

ところが精神のレベルになると、だいぶ曖昧になり、「男らしさ」とか「女らしさ」といふやうな区別しかできなくなる。女の中にも「男らしさ」があり、男の中に「女らしさ」もある。そしてこゝに、心と体の性の不一致が生まれる余地があるのかもしれない。

そして霊的なレベルになると、男女の区別はできない。無性であるか両性であるか。それを「中和的」と言ふわけでせう。

河合氏は、ユング派の分析家ヒルマンのかういふ言葉を紹介してゐます。

「たましい」といふ言葉によつて、ひとつの実体ではなく、ものごとに対する見方を意味する。

つまり、人間を「たましいを持つ者」と言ふとき、もはや男であるとか女であるといふ区別をしないで見る。人間に対する、より本質的な見方だと言へるでせう。

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