fc2ブログ
まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

LGBTQでない人は、なぜ存在するのか

2023/05/22
世の中を看る 0
2023-05-23

LGBTQに関する法案をG7サミット前に国会に提出するかどうかで、自民党内が紛糾してゐる様子を見ながら、改めてこの問題に意識が向きます。

世間では、
「LGBTQの人々を差別するな」
といふ論調や
「この法案を通せば、社会が却つて混乱する」
などといふ論調がほとんどのやうに見受けられます。

それも確かに問題ではあるけれど、私としてはもう少し基本的なところ、つまり、
「なぜ、LGBTQといふやうな人々が存在するのか」
といふことが気になつてゐました。

ところが、そのことを今回考へてゆくと、それよりももう一つ基本的な問題があるやうな気がしてきたのです。

「そもそもなぜ、LGBTQではない人たちが大勢ゐるのか」
といふことです。

「LGBTQでない人」が多数派であるのは間違ひない。最近の調査では、日本の性的マイノリティはおよそ10%と言はれます。私の肌感覚からすれば「そんなに多いのか」といふ気がしますが、それでも残りの90%は「LGBTQ」でない人です。

「LGBTQでない」とは、どんな人か。これも、今のやうに性のあり方を細かく分類されるやうになると、定義が難しいのですが、一応かう言つてみませう。

「体の性と心の性とが一致し、その性と違ふ性(異性)に主たる性的関心を抱く人」

つまり、体が男であれば、意識も「自分は男である」ことを疑はず、基本的に恋愛(性愛)対象は女性に限られる。体が女である場合も、同様です。

私自身もこのカテゴリーに入るし、私の周りの人たちのほとんどもこのカテゴリーの中で納得して生きてゐるやうに見えた。だから、何らの違和感も抱かずに来たのです。

ところが今、改めて自問してみると、
「どうして私はこれまで、体が男であると同時に意識も男であることを当たり前と思つてきたのだらう?」
といふ疑問が湧くのです。

体と意識を別次元のものと考へれば、このふたつが一致するのは「当たり前」とは言へないでせう。一致する場合もあれば、一致しない場合もある。それがむしろ自然なやうにも思はれます。

ところが現実には、90%の人はこのふたつが一致する。この偏りが、むしろ不思議な(そして、重要な)気がしてくるのです。

そこで、「LGBTQ」の問題を考へるにおいて、さういふマイノリティがなぜ現れるかと考へる前に、「なぜLGBTQでない人がマジョリティなのか」と考へてみる。さうすることで、いま議論されてゐる「性の多様性」といふテーマを、もう少し深掘りすることができるのではないか。さう考へるのです。

前置きが長くなりました。本論に入らないと話にならないのですが、正直なところ、この設問に対する答へはたいへん難しい。少し大袈裟に言へば、この問題を追求していくと、我々の人間存在としての根源にまで遡つていくやうな予感がします。しかしそれだけに、難しいけれども、醍醐味もある。

どうせ一度の記事で書き切れるものではないので、思ひつくまゝに、一つのアイデアが浮かぶ毎に、徒然、書いてみようと思ひます。

まづは手始めに、Bingのチャットで
「男はなぜ自分を男だと自認するのか?」
と訊いてみませう。

すると、かういふ答へが返つてくる。

男性が自分を男性だと認識する理由は、生物学的に男性であるためです。人間は、生殖細胞によつて決定される染色体の組み合はせによつて、男性(XY) または女性(XX) に分類されます

これは遺伝子レベルの説明ですね。男女では染色体の組み合はせが違ふ。それで、男性には男性らしい体の特徴が現れ、女性には女性らしい特徴が現れる。だからそれを見て、「あゝ、自分は男性(女性)だ」と認識する、といふわけです。

しかしこれは、あまり気の利いた説明とは言へない。実際には、生物学的には明らかに男性であるのに、それでも現実には、自分を男性だと認識できない人が、少数ながら、ゐるのです。問題はそこにある。

さうすると、我々の性自認は明らかに、身体的な要因だけで成立してゐない。何か別の、身体的ではない要因がある。それが何か。

その「何か」が目に見えない。目に見えない「何か」があつても、90%の人は生物学的な性別を違和感なく受け入れるが、10%の人はそこに違和感を感じる。見えないのだから、多分、自分でもどうしやうもないでせう。

次に、かういふ質問をしてみます。

「身体的に男である自分が、身体的に男である人を好きになるとき、自分は自分を男であると感じるのか、それとも女であると感じるのか?」

すると、BingAIはかう答へる。

それは個人によつて異なります。自分がどういふ性別であるかは、自分自身が決めることができます。また、LGBTQの人たちは、自分自身をどう表現するかについて、悩んだり、苦しんだりすることがあります。

質問にまともに答へてゐない。答へあぐねてゐるやうにも感じられますね。これは当事者に訊かないと、正確なところは分からないかもしれない。

私がこの質問をした背景には、
「自分の性別を認識する前提には、相手との相対関係が必ずあるのではないか」
といふ、私なりの仮説があります。

つまり、
「私は男である」
といふ自己認識は、私の目の前に「男ではない性」つまり「女性」がゐてこそ生まれるものではないかと思ふのです。

男でありながら男を好きになる人(ゲイ)の場合、
「男は女を好きになるべきで、男を好きになるのはへんだ」
といふ概念があれば、自分の内に葛藤が生じるでせう。

それでも同性を好きになるしかないなら、自分を女性と感じるほうが葛藤が少なく、楽ではないか。そんな気もするのです。

ところで、葛藤をなくすもうひとつの方法がある。

「異性を好きになるのが正常である」
といふ概念を消す
ことです。

「性の多様性を認めよう」
といふ主張には当然、この方向に全体の意識をシフトさせようといふ意図があるでせう。

さうなることが、性の多様性を認める社会実現に不可欠であり、より自由な社会が実現できるといふわけです。しかし、支障はないのか。問題はさう単純ではなささうです。

この他にも、Bingといくつか問答をしてみましたが、堂々巡りで、なかなか議論は深まりません。次は、河合隼雄の『とりかへばや、男と女』を参考に、もう少しこのテーマを考へてみることにします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



Comments 0

There are no comments yet.