驚くべき多神教
我々の中には「良心」があります。そして、この「良心」は「私だけの第二の神」であるといふ。
現在、世界に80億の人々が生きてゐるなら、80億の「良心」があるといふことであり、それはつまり80億の「第二の神」がゐるといふことにもなります。日本では「八百万の神」と言ひますが、その100倍の神がおられるとは、驚くべき多神教です。
さらに考へてみると、神は宇宙のどこにも存在する遍在神でもあるといふ神観もあります。それなら、神は第二の神として、人間の中だけでなく、石の中にも虫の中にもおられる。さらに言へば、私の体を作る細胞ひとつひとつの中にもおられる。
もつとも、石の中の神は、我々の中の「良心」とまつたく同じ動きをするわけではないでせう。石の中の「良心」は、より法則的な働き方をする。しかし、それが「第二の神」である限り、石にも我々と同様、「神性」があると言つてもおかしくないと思ふ。
その意味では、私と石とを画然と分ける明確な境界線はないことになります。
こんにち我々は、聖書的な宗教を中心に、宗教を「一神教」と「多神教」に分けて考へます。そして、何となく「一神教」のほうがレベルが高く、「多神教」は雑多な神を信じるとしてレベルが低いやうに思ふ。
しかし、本当にさうだらうか。例へば、アルベール・カミュの小説『異邦人』に、こんな場面があります。
主人公のムルソーは諍ひに巻き込まれ、銃で相手を打ち殺す。裁判にかけられたとき、判事がかう尋ねます。
「お前は神を信じるか?」
ムルソーが「信じない」と答へると、判事は半ばヒステリーになつて、信じることを強要しようとする。
判事だけではない。司祭もムルソーの拘置所を訪ねては、しきりに「信仰を持て」と勧めるのです。
これはどういふことかと言ふと、キリスト教社会において「神を信じない者」は信用できないのです。神を信じることで人は自分の中に道徳基準を作り、人の道を逸脱しない者になる。蛮族が信仰によつて初めて、まともな人になると考へるのです。
だから、キリスト教社会で「私は無宗教です」と言へば、怪訝な顔をされる。無神論者かと疑はれ、人として信用されないのです。
神を信じることは、悪いやうには思はれない。しかし、こゝにひとつの問題があります。
「神を信じる」といふとき、その神は私に内在化されるのか。神が、我々の人間性をつなぎとめる「箍(たが)」に留まるなら、その箍が外れれば、また元の蛮族に戻りはしないか。さういふ懸念があります。
その点、「多神教」には、「一神教」にない良さがあります。神が私の中に内在化するのです。
例へば、日本には昔から
「お天道様が見ておられる」
といふ警句があります。
これは、お天道様が神だといふわけでも、お天道様の中の「良心」に従はうと言つてゐるわけでもない。私の中の神(良心)をお天道様に映して、敬つてゐるだけです。
お天道様は宗教臭いことは一言も語らない。ただ東から昇つて西へ沈み、地を照らしてゐるだけです。
さうすると、この私には、難しい宗教の教義など必要ない。「お天道様が見てゐる」の一言で十分なのです。
さういふ人は、お天道様だけではない。石を見て「お石様が見ておられる」とも感じるし、細胞を意識して「細胞様が見ておられる」とも感じる。何らの宗教的教へがなくても、唯一の神がなくても、自分の「良心」だけで良心的に生きることができるのです。
だから、「良心」を「第二の神」と呼んで、「多神教」の世界を教へてくれる考へは素晴らしいと思ふ。
余談ですが、ムルソーは殺人の動機を訊かれて、
「太陽が眩しかつたからだ」
と答へてゐます。
太陽は単なる太陽であつて、「お天道様」といふ観念はないのです。

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