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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

人格は高潔である

2023/05/17
私の中の世界 0
2023-05-17

「自我とは、考へる生き物である」

さう言つてもいゝほどに、自我は朝から晩まで考へ続けてゐます。

「自我」とは、ふつうに「私」と思つてゐる意識です。その「私」がどうしてそんなに考へ続けてゐるかと言へば、「私」を守るためだと思ふ。

「私」がちやんと生きていくためには、「私」を環境に適応させなくてはいけない。どうやつて食料を過不足なく確保するか。それは今だけでなく、将来にわたつても考へなくてはいけない。

人間関係も重要です。人に批判されず、傷つけられないやうに、注意を払ふ必要がある。できれば劣位より、少し優位に立つておきたい。

さういふ考へを自我は休むことなく考へる。一説によると、かういふ考への断片は、1日に4万くらゐにものぼると言ひます。ものすごい過重労働です。

とてもありがたい働きではあるのですが、一つ問題があります。自我の考へには往々にして「我欲」が紛れ込むのです。これはなかなか微妙で、難しい問題です。

どれくらゐ「我欲」が紛れ込むのか。その割合は一定ではないでせうが、まつたくゼロといふ人は、多分ゐないと思ふ。もしかすると、1億人に1人か2人くらゐはゐるかもしれない。

どんなふうに我欲が紛れ込むのでせうか。

例へば、子どものことが心配で、親がその子を躾けようとします。そのとき親自身は「子どものため」と思つてゐたとしても、その中には保身の思ひが紛れ込んでゐる可能性がある。

「子どもを躾けられないダメな親として見られたくない」
「あとで、子どもから責任を追及されないやうに、言ふべきことは言つておかないと」

かういふ思ひは、充分にあり得ますね。

あるいは、誰かから褒められた、良いことをしてもらつた。さういふとき「ありがたう」と感謝します。しかしこの「ありがたう」の中にも、我欲が隠れてゐるかもしれない。

「どうしてこの人は、かういふことをしてくれるのか?」
「ありがたうと言へば、良い印象を与へることができるだらう」

これはまあ、ちよつと穿ち過ぎかもしれない。しかし、感謝一つでも、100%純粋といふことはなかなかないやうな気がします。

とは言へ、これは致し方ないとも言へます。

自我は元来、自分を守るのが第一優先事項です。徹底して、自分の味方です。ただそのために、自分以外が見えない。だから、一歩間違ふと、自己中心のやうになりやすいのです。

そしてもう一つ、自我のために弁明をしておくと、自我が自己中心になりやすいとしても、それは私の人格とは関係ないと思ふ。

「かういふ私は、ダメな人間だ」
と思つて、落ち込む必要はないのです。

自己中心の思ひは、私の深いところから湧き上がつてきます。それは、私の記憶の奥底にひつそりと沈殿してゐたものが、出来事をきつかけに浮き上がつてきたやうなものです。

この現象は、私の人格の現れではない。むしろ、この現象を通して古い記憶を払拭してほしいと思つて現れてくるだけです。

部屋にゴミが溜まれば、掃除すればいゝだけのことです。ゴミがあるからと言つて、部屋自体を否定する必要はない。それと同じことでせう。

我々が長い間悩み続けている「堕落性」も、私の人格とは関係がない。私の人格はつねに「神のかたち」に似て、高潔なのです。問題は、現れる堕落性をどう処理するか。それだけです。

私の人格は高潔である。それと同じく、意地悪さうな人の人格も高潔です。人格自体を否定すべきではないと思ふ。良心の管轄を受けるやうにさへなれば、自我は私にとつてこの上なく頼り甲斐のある守り手です。

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