分からうとしない
「分からう、としない。分かつたと思つた瞬間、神との関係が断たれる」
といふことについて、考へてみようと思ひます。
例へば、今私が隣人との人間関係の問題を抱えてゐたとします。
細かな問題でよくぶつかり、その都度ひどく文句を言はれる。どうしてこんなに性に合はない人が目の前に現れてくるのか。どうしたらその悩みを解決できるのか。それを私は知らうとするでせう。知つて、対処してこそ、その問題から脱却できると思ふからです。
そこで、問題の原因を探り始めます。
私がこんなところに引つ越してきたのがよくなかつた。考へ方も価値観も違ふのでどうしやうもない…。
すぐまたどこかに引つ越すわけにもいかないから、我慢するしかない。なるべく顔を合はせないやうに気をつけて暮らさう。そんなふうに対策も思案します。
それらの原因も対策も、私には確かに尤もらしく思はれます。しかし、そのやうに私が「分かつた」と思つた瞬間、実は、神の摂理から断絶してゐる可能性があるのです。
なぜかといふと、本当の原因はそこにはない。それなのに、私が本当ではない原因を掴んでしまふと、本当の原因へ通じる道が塞がれてしまふのです。
本当の原因は、つねに私が理解できるよりも深いところにある。それが、「蕩減の法則」の教へるところでせう。
「私」という個性体はどこまでも復帰摂理歴史の所産である。それゆゑ、縦的な蕩減条件を「私」によつて横的に立てなければならないのだが、その条件が一体どのやうなものか、それを独自に知ることは決してできない。 |
これが『原理講論』における「緒論」の結論です。
だから、その「私」が自分なりに「分かつた」と思ふと、復帰摂理歴史の所産としての「私」の使命を果たせなくなるのです。
それなら、どうしたらいゝのでせうか。
「本当の原因は、私には分からない。これが原因ではないかと思ふことは、私の思ひ込みに過ぎない」
と決めてしまひます。
そして、目の前に起きてくることのすべてを、自分の問題、自分の責任として受け入れていくことです。これを「甘受」と言ひます。
「甘受」を別の言葉で言ひ換へれば、
「悪いこととして『私』に入つてきたものを、善いこととして出していく変換作業」
のことです。
この作業を遂行するためには、善悪の概念を手放す必要があります。物事に対する執着を捨てる必要もあります。ある意味では、私のやるべきことはこの二つだと言つてもいゝでせう。この二つがあると、「甘受」ができないのです。
縦的な蕩減条件は、「私」の中に「悪いこと」として流れ込んできます。それを「私が」自分の中で消化し、「善いこと」として出していく。この変換作業のことを「横的に蕩減復帰する」といふのでせう。
イエス様が
「敵を愛せ」
と言はれ、お釈迦様が
「中道を行け」
と言はれたのも、このことではないかと思ひます。

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