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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

修正版・天国実現私案

2023/05/06
神は摂理する 4
キリスト教 イエス
2023-05-06

先日、「天国実現私案」なる記事をアップしたのですが、書きあげてみると、我ながら何だかおかしい。この方法では天国実現はかなり難しい、むしろだんだん遠のいていくやうな気がしてきたのです。

それで、どこをどう修正したらいゝのかと考へてゐると、ハッと、あることに思ひ至りました。何のことはない、元のアイデアを全部そつくりそのまゝひつくり返してみたらどうか。そのことに気づいたのです。

つまり、かういふことになります。

① 異端は決して批判しないで、すべて許容する。
② 我々が必ず正しいといふ保証はないので、被害者宣言は一切差し控へる。
③ いかなる事案も裁判に訴へない。

このやうにひつくり返したほうが、元の私案よりも少しはまともになるでせうか。一つづつ検討してみませう。

①について。

実は、キリスト教もその初期において、異端問題で悩んだ歴史があります。

霊的グループとしてはグノーシス派が出てきたので弾圧する。あるいは、キリストの人性を強調するアリウス派も異端とされました。

ところがよく考へてみると、キリスト教自体も元々、ユダヤ教から異端視されてゐたのです。あゝいふ人の血を飲み、人肉を喰らふやうな野蛮な奴らは潰してしまへといふ意見が大勢を占める中で、サンヘドリンの長老、ガマリエルが次のやうに反対意見を述べてゐます。

あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり間違へば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない。
(使徒行伝5:38-39)

そのとき、強硬議論はガマリエルの意見で一旦収まつたものゝ、まともに信じた人はゐなかつたかもしれない。しかし事実は、その当時、イエス教団の外にもいくつかの信仰集団があつて、いづれも自滅していく中、イエス教団だけは生き残つたのです。

私はガマリエルの意見の中に、神の知恵と原理を見るやうな気がします。

②について。

「自分は正しいといふ考へ」と「自分は不当な扱ひを受けてゐるといふ被害者意識」とは、宗教者が最も遠ざけるべきものだと思ふ。なぜなら、この二つはともに、堕落性の中核をなすものと思はれるからです。

アダムの家庭で、長男のカインが弟アベルを殺害するに至つたのは、まさにこの二つの要因によるでせう。

「私も弟と同様、真心から神に捧げものをしたのに、弟のものだけが喜ばれ、私のものが無視されたのは不当だ」
とカインは思ひ、弟を野原に連れ出し殴り殺した。

これは、人の内面の堕落性が殺人事件を引き起こした最初の事例と(聖書的には)言へます。だからこそ、この性質を除去しようとして流れてきたのが、神の復帰摂理の主要な側面であつたわけでせう。

ならば、現代の宗教者も当然、この摂理の先頭に立たねばならない。「自分は正しい」といふ考へを捨て、被害者意識を克服せねばいけないのです。

実のところ、他のどんな人であれ、外側から私を被害者にすることはできません。論理的に言つて、私が被害者になるのは、唯一、私自身が自分に「被害者であること」を許可したときだけなのです。

③について。

自分たちが告訴されることはあるかもしれない。しかし、自ら誰かを告訴して裁判闘争をするのは得策ではないと思ふ。問題解決の早道のやうに見えながら、それが天国実現に資するとは思へないのです。

「敵を愛せ」といふのは、現実には非常に難しい、謂はば机上の空論のやうにも思へます。しかしこれは、「敵を敵のまゝで愛せ」と言つてゐるのではないと思ふ。

そんなことは、どんな聖人にもできないでせう。

だからこれは、
「敵であつた人を、敵でなくせ」
といふ意味に解すしかありません。

ある人を私の敵にするのは誰でせうか。これも「被害者」の場合と同様、私が「あの人を私の敵にする」と承諾しない限り、その人は私の敵にはならないのです。

ある人を私の敵にするのが「私」であるなら、その人を敵でなくするのも「私」以外にはゐません。もちろん、これは非常に難しいことではあるでせう。しかし可能であることは、イエス様が十字架上で最も典型的なモデルとして証明してくださつてゐます。

イエス様は2度、裁判にかけられ、有罪判決がおりました。今のやうに上告が可能であつたなら、そのときイエス様は上告されたでせうか。それは何とも言へない。ただ、さうすれば、敵は敵のまゝ固定されて、敵対関係を解消することは困難を極めたでせう。

さて、この修正案はどうでせう。元の案より、少しはましになつたと言へればいゝのですが。

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Comments 4

There are no comments yet.

甘えん坊くん

どうもです。

コメントでは、「はじめまして」です。おそらく?  m(__)m

独自な世界観を貫いておられ、自主性の意味では素晴らしいのですが、
ただ、、、残念なことに、今回、キリスト教世界へ踏み込んだ論調ゆえに、馬脚が出てしまっているようです。

例えば? 
グノーシスは、イエスが生きた時代に記されており、霊的集団ではなくて、
「真実に近い派」です。

死海文書が公開されてしまうと、(1947年、2021年 2回)
いよいよ、聖書世界の捏造性がバレバレです。

イエスが所属していたクムラン宗団は、
● 太陽崇拝の多神教で
● 輪廻転生の立場で、
● マグダラのマリアとの間に、2男1女がいまして、

そうなると、逆に・・・
聖書を紐解いて メシア顔する人間こそが、悪魔の手下という認識になります。

「敵を許す」事を崇高に見せてしまう教育を人類にしてしまうと、スーパーパワーを持つ邪悪な宇宙人が、邪教で人類を洗脳しようとした場合には、まんまと真面目な人間こそが 人類は毒牙にハマり、本当の神を裏切る事になり、魔界からすると チョロい存在に堕ちてしまいます。 

それが、ここ1700年弱の間の、出鱈目:聖書世界の弊害でした。

聖書の神、ヤハウエは、アヌンナキETの アヌ王の次男エンリルの成り済ましで、

自分が蛇族母とのハーフの 次男だったから、兄から長子を奪う
反抗の精神で捏造したのが、聖書世界です。

ご一考を、よろしくお願いします。
中東に、ヤコブやモーゼの痕跡が出土していないのです。


聖徳太子の輸入した、世界最古の学術仏法 三論宗の導士として、同志の皆さんに お願い申し上げます。 m(__)m
私は、嘘は申しません。

このままでは、真面目で犠牲になれる、愛しき統一食口こそが、神願う真逆へ直滑降です。

覚醒を、お願いしたい。

2023/05/06 (Sat) 23:49
kitasendo

kitasendo

Re: どうもです。

コメントありがとうございます。
私には不案内な内容が多く、相応のご返答ができませんが、一つ、グノーシス主義については、私の書き方はちょっと雑だったかなと反省しています。改めて、もう少し深く学んでおきたいと思います。

2023/05/07 (Sun) 10:59

桜葉佳代

良かったです

ここしばらく不調が続きブログ記事を読んでいませんでしたが『天国実現私案』というタイトルに惹かれてこの記事を読む前に修正版じゃない方から読みました。
先の記事を読んで正直、どうしましょうと言う思いになりましたがコメント欄に気づきがあったので修正版を期待して読みました。
結果二段構えでよかったのだと思います。
180度転換の勇気に拍手を送ります。
最初の記事は信仰の貞操を護り邁進すべきという形でしたが、これは「天国実現」からは遠いのです。
天国がイスラエル民族が目指したような限定的に閉ざされた世界であれば良いかもしれませんが私たちが目指すのは全人類どころか人類史上全て天宙を視野に入れた「影のない」天国であるのだから「敵」が存在してはいけないのです。
お父様には「敵」がいませんでした。
クリスチャンでさえ「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく我らの罪をもゆるしたまえ」と祈ります。
(自分たちがゆるされたいからという弱腰とも解釈されますが)

私たち一世は道端で呼び集められた信仰的には乞食のような立場でしたから、旧約的な信仰訓練から始めるしかありませんでした。
この旧約的な信仰は敵を滅ぼすことしか知りません。
滅ぼすことを続ければそこには恨みと恐怖が残り信仰もまた恐怖信仰に陥るのです。

では敵を赦すだけでどうやって争いのない理想的な天国を実現できるのか?
放っておけば世の中には迫害・破壊・争奪・搾取が蔓延していく。
闘わなくてよいのか?闘うとしたらどんな戦いなのか?闘うべき相手は何者なのか?
福音が天国を実現できず無力化しているように見えるのは何故なのか?

課題はつきません。
今更ですが、原理講論総序の問いを私たちは持ち続けていくべきなのだと思います。

2023/05/07 (Sun) 16:24
kitasendo

kitasendo

Re: 良かったです

私案に反応していただき、ありがとうございます。何ら体系だったものではありませんが、現今の教会の指針にはいささか懸念を抱くものですから、微力ながら、私案を掲げてみた次第です。仰る通り、課題は尽きませんね。

2023/05/08 (Mon) 23:26