修正版・天国実現私案
先日、「天国実現私案」なる記事をアップしたのですが、書きあげてみると、我ながら何だかおかしい。この方法では天国実現はかなり難しい、むしろだんだん遠のいていくやうな気がしてきたのです。
それで、どこをどう修正したらいゝのかと考へてゐると、ハッと、あることに思ひ至りました。何のことはない、元のアイデアを全部そつくりそのまゝひつくり返してみたらどうか。そのことに気づいたのです。
つまり、かういふことになります。
① 異端は決して批判しないで、すべて許容する。 ② 我々が必ず正しいといふ保証はないので、被害者宣言は一切差し控へる。 ③ いかなる事案も裁判に訴へない。 |
このやうにひつくり返したほうが、元の私案よりも少しはまともになるでせうか。一つづつ検討してみませう。
①について。
実は、キリスト教もその初期において、異端問題で悩んだ歴史があります。
霊的グループとしてはグノーシス派が出てきたので弾圧する。あるいは、キリストの人性を強調するアリウス派も異端とされました。
ところがよく考へてみると、キリスト教自体も元々、ユダヤ教から異端視されてゐたのです。あゝいふ人の血を飲み、人肉を喰らふやうな野蛮な奴らは潰してしまへといふ意見が大勢を占める中で、サンヘドリンの長老、ガマリエルが次のやうに反対意見を述べてゐます。
あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり間違へば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない。 (使徒行伝5:38-39) |
そのとき、強硬議論はガマリエルの意見で一旦収まつたものゝ、まともに信じた人はゐなかつたかもしれない。しかし事実は、その当時、イエス教団の外にもいくつかの信仰集団があつて、いづれも自滅していく中、イエス教団だけは生き残つたのです。
私はガマリエルの意見の中に、神の知恵と原理を見るやうな気がします。
②について。
「自分は正しいといふ考へ」と「自分は不当な扱ひを受けてゐるといふ被害者意識」とは、宗教者が最も遠ざけるべきものだと思ふ。なぜなら、この二つはともに、堕落性の中核をなすものと思はれるからです。
アダムの家庭で、長男のカインが弟アベルを殺害するに至つたのは、まさにこの二つの要因によるでせう。
「私も弟と同様、真心から神に捧げものをしたのに、弟のものだけが喜ばれ、私のものが無視されたのは不当だ」
とカインは思ひ、弟を野原に連れ出し殴り殺した。
これは、人の内面の堕落性が殺人事件を引き起こした最初の事例と(聖書的には)言へます。だからこそ、この性質を除去しようとして流れてきたのが、神の復帰摂理の主要な側面であつたわけでせう。
ならば、現代の宗教者も当然、この摂理の先頭に立たねばならない。「自分は正しい」といふ考へを捨て、被害者意識を克服せねばいけないのです。
実のところ、他のどんな人であれ、外側から私を被害者にすることはできません。論理的に言つて、私が被害者になるのは、唯一、私自身が自分に「被害者であること」を許可したときだけなのです。
③について。
自分たちが告訴されることはあるかもしれない。しかし、自ら誰かを告訴して裁判闘争をするのは得策ではないと思ふ。問題解決の早道のやうに見えながら、それが天国実現に資するとは思へないのです。
「敵を愛せ」といふのは、現実には非常に難しい、謂はば机上の空論のやうにも思へます。しかしこれは、「敵を敵のまゝで愛せ」と言つてゐるのではないと思ふ。
そんなことは、どんな聖人にもできないでせう。
だからこれは、
「敵であつた人を、敵でなくせ」
といふ意味に解すしかありません。
ある人を私の敵にするのは誰でせうか。これも「被害者」の場合と同様、私が「あの人を私の敵にする」と承諾しない限り、その人は私の敵にはならないのです。
ある人を私の敵にするのが「私」であるなら、その人を敵でなくするのも「私」以外にはゐません。もちろん、これは非常に難しいことではあるでせう。しかし可能であることは、イエス様が十字架上で最も典型的なモデルとして証明してくださつてゐます。
イエス様は2度、裁判にかけられ、有罪判決がおりました。今のやうに上告が可能であつたなら、そのときイエス様は上告されたでせうか。それは何とも言へない。ただ、さうすれば、敵は敵のまゝ固定されて、敵対関係を解消することは困難を極めたでせう。
さて、この修正案はどうでせう。元の案より、少しはましになつたと言へればいゝのですが。

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