天国実現私案
我々はいかにして天国をこの地上に建設していくか。そのための基本理念と基本的実践方案を合はせて、簡略ながら、こゝでまとめて提示してみたいと思ひます。
まづもつて一番重要な基本前提は、
「我々こそが、教祖の教説を正しく受け継ぐ、唯一の正統であることを確信し、それを宣布すること」
です。
従ひまして、我々の理解といさゝかでも食ひ違ふと思はれる者たちのグループには、「異端」あるいは「霊的グループ」とのレッテルを貼り、徹底的に批判をする必要があります。これを許すと、彼らは次第に大きくなり、我々正統に属する者たちに食指を伸ばし、略奪していく恐れがあります。なるべく初期に、彼らの芽を摘むに越したことはありません。
天国には塵ほどの「異端」があつてもいけないのです。「異端」を批判し、潰していくことは、神の願ひであり、教祖の願ひです。これは、ほぼ間違ひないでせう。
次に重要なことは、我々の活動が広がるにつれて、それを快く思はず、活動を妨害し、さらには弾圧しようとして来る勢力が現れることを予期しておくことです。この弾圧を、我々は「迫害」と呼びます。
「迫害」は、神を信ずる者たちが動き始めると、必ず現れてくる現象です。神の側にある我々を迫害する者たちは、サタン側に属する者であると見なさねばなりません。
サタンとは「神に反対する者」です。彼自身は霊的な存在ですが、自身の意図を行使するのに、自分と心根を同じにする地上の人間たちを利用します。かういふ地上人はこの世の権力を握る者が多いので、国家権力を駆使して迫害することも多いのは、歴史を振り返つても自明なことです。
迫害はこのやうな構図で起こるものなので、我々は
「自分たちは神側であつて、絶対的に正しい」
といふ自信を、ゆめゆめ失つてはなりません。
このやうに、「迫害」は謂はれないものです。我々を迫害する者は「加害者」であり、迫害を受ける我々は「被害者」です。従つて、この迫害に対抗するには、我々は自分たちが「被害者」であることを声高に叫ばなくてはなりません。
とは言へ、我々はあくまでも宗教者です。「汝の敵を愛せ」といふキリストの教へを無視することはできません。独善的な態度は宗教者にふさわしいものとは言へないでせう。
そこで、声高に叫ぶときも、最初に、
「我々にも、至らない点がまつたくなかつたとは言へない」
と謙虚に認めるべきです。
さう認めた上で、
「たといさうだとしても、これほど理不尽に断罪を受ける理由があるのか」
と、自己の正当性と迫害者の不当性を、世の中に力強く訴へる必要があります。
迫害する者の中にも、ひときわ激しく、事実を捻じ曲げてでも糾弾してくる者たちがゐます。さういふ者たちは、正義の仮面をかぶつてはゐるものの、その実は、自分たちの利益を得ようといふ下心があるのです。
さういふ者たちには、容赦してはだめです。「敵を愛せ」といふやうな生易しい対応が通じるものではありません。
民主主義は三権分立で、ありがたいことに、司法が独立してゐます。世俗のシステムとは言へ、天国を創るには、これも利用すべきです。
愛も話し合ひも通じない者たちは、裁判所に
「名誉棄損」
で訴へます。
この方法は敵を敵のまゝで残すことにはなるものゝ、天国を逸早く創るには仕方がありません。彼らは恨みを持つでせうが、いづれ悔い改めるときもくるものと思ひます。
以上、まとめると…。
① 異端は決して許してはいけない。
天国には異端は存在し得ません。唯一の理念、唯一の解釈で統合されるべきです。異端さへ存在しなければ、我々は一つの理念を同じやうに理解する者同士で心を通はせ、天国生活ができるはずです。
② 迫害を受ける我々は必ず正しいのだから、「被害者」であることを世に訴へるべきである。
神の仕事をしてゐる我々は、基本的に善で正しいので、本当に悔い改めるべきことはありません。しかし我々も完璧ではないので、できるだけ改革に取り組みながらも、「被害者」の立場を大いにアピールすべきです。
③ 必要なら、裁判制度も活用する。
今や、「敵を愛せよ」とか「右の頬を打たれたら左も出せ」などといふ理想主義的な教へがそのまゝ通じる時代ではありません。悪なる者は、その悪を暴露し、戦つてでも倒す。それが天国を創る早道であり、避けては通れない道です。
さて、かういふ我々(結局これは誰のことか?)は、最短どれくらゐで天国を創れるでせうか。おかしいな。もう少しましな私案になると思つたのに。この私案には、いろいろ問題がありさうな気がする。もう少し熟考してみます。

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