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信じるものを見る

kitasendo
2023-05-02

前の記事「概念の人」で、
「(概念の人は)見えないものを見る」
と書きました。

これは言ひ替へると、
「信じるものを見る」
とも言へますね。

例へば、今自分の目の前の人に困らせられるとき、
「私は意地悪な人を見てゐる」
と思ひます。

しかし実は、目の前に「意地悪な人」はゐないのです。さうではなく、私がその人を「意地悪な人」と信じるので、その人が意地悪に見える。それが真実でせう。

あるいは、「世間体」といふものがあります。日本人はいまだに、これにかなり弱い。「世間体が悪い」と思ふことには、相当のブレーキがかかるものです。

ところが、世間体はほんとうにあるのか。「世間」はまあ、自分の外にあると言つても、いゝかもしれない。しかし「世間体」は決して自分の外にない。あるとしても、純粋に自分の中にだけあるものです。

それならなぜ、我々は「意地悪な人」がゐる、「世間体」はあると信じてきたのでせうか。「鏡」で例へてみませう。

鏡の前に立てば、そこに映るのは「自分」以外にはない。ところが、映つた姿を見ると、どう見ても自分とは思へないのです。

そこへ誰かがやつて来て、
「ほら、鏡に意地悪な人が見えるでしよ」
と囁く。

すると、
「あゝ、今自分は意地悪な人を見てゐるんだな」
と思ひ込むのです。

よもや、それが自分自身などとは思ひもしなくなる。

世間体も同じです。鏡を覗くと、そこには自分のことを悪く噂してゐる人たちの姿が見える。

そこへ誰かがやつて来て、
「世間体の悪いことは、しないほうがいゝよ」
と知恵をつけてくれる。

それで、
「あゝ、世間の人たちは私のことをあんなふうに見て、陰で噂してゐるに違ひない」
と思ひ込むのです。

私が実際鏡の中に見てゐるのは自分の(内面の)姿なのに、すつかり騙される。物心がついたときから騙されつづけてゐるので、疑ひもしなくなります。

「信じるものを見る」といふとき、「信じるもの」とは自分の頭の中にあるものです。それを見ながら、自分の外側にあるものと勘違ひをする。

この勘違ひは、結構厄介な問題を引き起こします。

意地悪な人がゐると思ふので、行動的な人なら、その人を何とか変へようと試みる。気弱な人なら、さういふ人からは距離を置かうとする。いづれにせよ、外側を変へることに気を取られるので、自分の内面(信じるもの)を変へればいゝといふ発想が浮かびません。

これは、少し特殊な言ひ方をすれば、信仰基台が立たないといふことです。そしてこれが立たないと、当然、実体基台も立たない。すると、堕落性を脱ぐことができず、心霊的な成長も難しいでせう。

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Admin:kitasendo