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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

今日も1日、無礼講

2023/04/24
信仰で生きる 2
イエス
2023-04-24

第二もこれと同様である。
「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。
これら二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。
(マタイ福音書22:39)

この第二の戒めにおいて、強調されてゐるのは
「隣り人を愛せ」
といふことであるやうに見えます。

しかし本当に大事なのは、前半の
「自分を愛する」
のほうではないかと、つねづね思ふのです。

といふのは、「自分を愛する」ことなしに「隣り人を愛する」ことはできない。しかも、「自分を愛する」ことは、何気なく考へてゐる以上に難しいことだと思はれるからです。

「自分を愛する」ことの大前提を、
「あらゆることに対して、自分を主体に立てる」
と表現して、考へてみませう。

これは「我を通せ」といふことではありません。むしろその逆で、「あらゆることを受け入れる」と言つたほうがいゝ。

例へば、「無礼講」といふものがあります。

会社の宴会なら、社長が
「今日は無礼講だ。遠慮なしに呑んで食べて楽しんでくれ」
と言ふ。

このとき、社長はその宴会の主体です。主体だからこそ「無礼講」だと言へる。下つ端の社員が「今日は無礼講だ」と言へば変だし、顰蹙を買ふでせう。

あらゆることに対して主体となる、といふのは、宴会における社長の立場に立つ、といふことです。

社長が「無礼講だ」といふとき、彼は
「この時間、私はどんな振る舞ひもすべて許して、受け入れる」
といふ自分の信念を表明してゐます。

どんなどんちゃん騒ぎをしても、受け入れる。日頃は言へない不満を社長にぶつけても、受け入れる。社長を見下しても、受け入れる。

このとき、社長は周りがどんな振る舞ひをしやうと、自分にどんな態度を取らうと、その被害者にならない。社長はその場に責任を持つので、どんなことが起こつても、それは「無礼講」を許した自分の責任なのです。

このやうな、主体の立場で、被害者にならない態度
「自分を愛する」
と考へてみます。

さうすると、この態度はそのまゝ、「隣り人を愛する」といふことになりはしないでせうか。隣り人のいかなる振る舞ひも受け入れる。それが愛することの大前提だと思はれるからです。

問題は、「無礼講だ」と言ひながら、実際どこまで許容できるかといふところにあります。

無礼講だと言つておきながら、
「お前のその言ひ草だけは許せない」
と言へば、それはその程度の無礼講だといふことになります。

「自分を愛する」のもその程度であり、「隣り人を愛する」のもその程度といふことになります。

その点、イエス様の無礼講は徹底してゐました。最後は自分の命の要求まで受け入れて、差し出されたのです。これほどまでに「自分を愛した」かたは、他にないと言つてもいゝでせう。まさに、み言葉通りのかたです。

我々にそんな真似が容易にできないのは、確かです。しかしそれならせめて、日常の中で「今日も1日、無礼講」と宣言してみる。そして、どこまでの無礼を許せるか(つまり、どこまで自分を愛せるか)、チャレンジしてみようではありませんか。

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Comments 2

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はちみつ

お言葉に甘えて

無礼講ということで、ご依頼します。

少し前の記事「神は「善の神」か」について。
このブログそのものではなくて、すみません。
そこは無礼講ということで、御容赦下さい。

神には善も悪も無い、という文言を見て大変驚きました。
でもそれが真理かもしれませんね。
神様は悪人の上にも、雨を降らせて下さるのだから。
としたら、サタン分立基準とか立てていた我々は、意味がないことをしていたのでしょうか?
蕩減条件を立てていたのは、無駄だったのでしょうか?
旧教育部長さんはどうお考えですか?

2023/04/25 (Tue) 18:41
kitasendo

kitasendo

Re: お言葉に甘えて

無礼講を活用していただき、ありがとうございます。
「サタン分立」といふのは無駄ではなかつた、といふか、その方法しかなかつたと思ひます。
人間が堕落して堕落性を持つやうになつたといふことは、神の立場に立てないわけです。良心が未成熟なので、良心基準を自分に当てはめないで、自分の外側に当てはめる。すると、「自分は正しく、お前は間違つてゐる」といふ善悪の概念ができる。すると、どうしても「私」と「あなた」といふふうに分裂、対立するやうになる。
神には善悪の概念がなくても、人間を復帰するには堕落性を脱がせる必要があり、そのためには、便宜的に善と悪の表示体に分けて死亡の血を流し、善悪を一体化させる必要があります。それが「アベル・カイン」の摂理であり、長子権復帰の摂理でせう。
しかし今やその摂理段階を超えて、父母権、王権復帰の時代です。こゝではもはや善悪の概念を超えて神の立場に戻らないといけない。それが善悪のない立場です。
「アベルは神側」「カインはサタン側」といふやうな概念は、もう捨てないといけないと思ひますが、いまだに古い思考方法が頑固に残つていますね。

2023/04/25 (Tue) 22:41