今日も1日、無礼講
第二もこれと同様である。 「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。 これら二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。 (マタイ福音書22:39) |
この第二の戒めにおいて、強調されてゐるのは
「隣り人を愛せ」
といふことであるやうに見えます。
しかし本当に大事なのは、前半の
「自分を愛する」
のほうではないかと、つねづね思ふのです。
といふのは、「自分を愛する」ことなしに「隣り人を愛する」ことはできない。しかも、「自分を愛する」ことは、何気なく考へてゐる以上に難しいことだと思はれるからです。
「自分を愛する」ことの大前提を、
「あらゆることに対して、自分を主体に立てる」
と表現して、考へてみませう。
これは「我を通せ」といふことではありません。むしろその逆で、「あらゆることを受け入れる」と言つたほうがいゝ。
例へば、「無礼講」といふものがあります。
会社の宴会なら、社長が
「今日は無礼講だ。遠慮なしに呑んで食べて楽しんでくれ」
と言ふ。
このとき、社長はその宴会の主体です。主体だからこそ「無礼講」だと言へる。下つ端の社員が「今日は無礼講だ」と言へば変だし、顰蹙を買ふでせう。
あらゆることに対して主体となる、といふのは、宴会における社長の立場に立つ、といふことです。
社長が「無礼講だ」といふとき、彼は
「この時間、私はどんな振る舞ひもすべて許して、受け入れる」
といふ自分の信念を表明してゐます。
どんなどんちゃん騒ぎをしても、受け入れる。日頃は言へない不満を社長にぶつけても、受け入れる。社長を見下しても、受け入れる。
このとき、社長は周りがどんな振る舞ひをしやうと、自分にどんな態度を取らうと、その被害者にならない。社長はその場に責任を持つので、どんなことが起こつても、それは「無礼講」を許した自分の責任なのです。
このやうな、主体の立場で、被害者にならない態度を
「自分を愛する」
と考へてみます。
さうすると、この態度はそのまゝ、「隣り人を愛する」といふことになりはしないでせうか。隣り人のいかなる振る舞ひも受け入れる。それが愛することの大前提だと思はれるからです。
問題は、「無礼講だ」と言ひながら、実際どこまで許容できるかといふところにあります。
無礼講だと言つておきながら、
「お前のその言ひ草だけは許せない」
と言へば、それはその程度の無礼講だといふことになります。
「自分を愛する」のもその程度であり、「隣り人を愛する」のもその程度といふことになります。
その点、イエス様の無礼講は徹底してゐました。最後は自分の命の要求まで受け入れて、差し出されたのです。これほどまでに「自分を愛した」かたは、他にないと言つてもいゝでせう。まさに、み言葉通りのかたです。
我々にそんな真似が容易にできないのは、確かです。しかしそれならせめて、日常の中で「今日も1日、無礼講」と宣言してみる。そして、どこまでの無礼を許せるか(つまり、どこまで自分を愛せるか)、チャレンジしてみようではありませんか。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
自分の言葉に気づく 2010/06/17
-
マイナスを消去する方法 ② 2009/10/07
-
影のない人 2019/11/30
-
お父様は本当にメシヤか? 2012/11/06
-