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ありのまゝの愛情

kitasendo
2023-04-19

先日の記事「どの子に死に水を取ってもらふか」に、コメントを寄せてくださつたかたがゐます。

斎藤一人さんの
「子どもには可愛い子どもと可愛くない子どもがゐて、たいていの親は可愛がらなかつたほうの子に世話になつて死んでいくんだよ」
といふ言葉を紹介したところ、
「自分のお腹を痛めて生んだ子に、可愛いとか可愛くないとかはありません」
と言はれるのです。

多分女性のかたでせう。実感かもしれません。

改めて自分のことを振り返つてみると、私には「可愛くない」と思ふことが確かにあつた。

「なんだ、こいつ! どうしてこんなことをするんだ!」
と、腹が立つ。

そして私の態度も硬化して、少し冷たくしたり、疎遠にしたりする。しかし、それも永続的ではないのです。しばらくするとまた善い点が見えて、「可愛いなあ」と思ふやうになる。

さういふことが、何度も繰り返しました。

それで、こんなふうに思ふ。

愛情は、感情の一つだ。感情はつねに変化して、可愛いときもあれば、可愛くないときもある。しかし、感情は揺れ動いたとしても、愛はつねに変はらずにあり続ける。

愛情は感情ですが、愛はエネルギーだと思ふ。エネルギーは状況によつてどうかう変はるものではなくて、つねに不変の法則によつて存在し、作用し続ける。これは、人智人力を超えたものです。

我々が「神の愛」といふとき、それも愛情といふより、愛といふエネルギーだと思ふ。

神はお母さんのやうに肌身で接して、お乳を飲ませてくれるといふやうなことはない。しかしより大きく普遍的な愛の場を作つてくれることで、無限無償の平安や喜びで満たしてくれる。ふだんはあまり意識されないとしても、それが我々の愛情の源になります。

だから、我々は自分たちの愛情のありさまに、あまり一喜一憂する必要はないのではないか。家族同士で可愛くなかつたり、腹を立てたり、少し憎く感じたりしても、それが問題ではない。

表面的にはどんな感情になつてゐたとしても、我々は変はらず愛の場の中にゐる。むしろ、その場から逃れ出ることはできない。

さう考へると、愛情の変化は、却つて、我々の心情生活に深く、豊かな色どりを与へてくれるのではないでせうか。愛そのものを信じ、我々は自分の愛情にもつと正直であつてもよいやうな気がします。

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Admin:kitasendo