「理由」のない幸福
インドの伝統哲学ベーダーンタ学派(「ベーダ聖典の極意」の意)の言葉に、次のやうなものがあるさうです。
「理由」のある幸福は、形を変へた不幸である。なぜなら、その「理由」はいつでもたやすく取り去られる可能性があるから。 |
「理由」は「条件」と言ひ替へてもいゝでせう。
つまり、
「これこれでないと、私は幸福ではない」
といふのが、「理由」のある幸福です。
「お金がこれくらゐなければ、私は幸福ではない」
「かういふ人と結婚できなければ、私は幸福ではない」
「私の努力と功績が認められなければ、私は幸福ではない」
我々には、「幸福の理由」がいくらでもあります。その一つでも満たすことは容易でないし、いつまた消え去るか分からない。それゆゑ、「理由」が多ければ多いほど、自ら幸福への道を狭めてゐるやうにも思へます。
まさに、「形を変へた不幸」です。
中には、
「本心の欲望が満たされなければ、幸福ではない」
といふ幸福論もある。
これもなかなかハードルの高い「理由」です。
何とか、ハードルを低くする方法があるでせうか。あるいは、これらの「理由」を易々と達成する方法があるでせうか。
聖書はイエス様のかういふ言葉を記録してゐます。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 (マタイ福音書6:33) |
「これらのもの」とは、「着るもの」「食べるもの」、つまり衣食住の要素です。「幸福の理由」に当たります。異邦人はこれらのものを切に追ひ求めるが、あなたがたはさうしてはいけない、と言ふのです。
イエス様の意図はかういふことかと、私なりに思ひます。
幸福に「理由」を付けることはやめなさい。それよりも、唯一の「理由のない幸福」である神の国と神の義を求めなさい。それさへ得れば、あらゆるレベルの「理由のある幸福」も、自動的に手に入るやうになる。 |
「神の国と神の義」とは、一体何でせうか。そしてそれはなぜ、「理由のない幸福」だと言へるのでせうか。
イエス様の言はれる「神の国」とは、どこかに建国される、目に見える国家ではない。「神の義」とは、文字で書かれた戒律でも法律でもない。
それらは謂はば、
「いかなる理由もなしに幸福であり得る、私の心の状態」
なのです。
「理由の幸福」を求める我々の発想は、大体、次のやうなものでせう。
今自分は、幸福でない地点にゐる。幸福になるには、こゝから出発して、幸福の地点に到達しなければならない。到達するまで、完全な幸福はない。
それに対して、イエス様には「不幸な地点から幸福な地点へ移動する」といふ発想がないのです。それなら、どういふ発想があるのか。今すでに自分は「幸福の地点」にゐるといふ発想です。だから、この発想は「幸福の理由」を必要としない。
我々の感覚からすれば、「神の国」も「神の義」もまだ実現してゐない。だからそれを「建設」するか、そこへ「行く」必要がある。だから「地上に天国を創らう」「霊界の天国へ行かう」といふ発想とスローガンが生まれるのです。
ある意味で、これはとても三次元的な発想です。無いものは創り上げていかねばならない。こゝに無いなら、あるところまで行かねばならない。幸福は基本的に「心の問題」であるのに、ついそれを時空間的、物質的に捉へてしまふ癖が、我々にはある。
とは言へ、それなら「自分は今すでに幸福の地点にゐる」といふ感覚は、どうしたら得ることができるのか。それは私もいまだ模索中と言ふしかない。
ただ、
「天国は今こゝにないから、(三次元的に)創り上げよう」
といふ発想だけでは、我々は永遠に天国を実現できないのではないかといふ気がするのです。

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