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行動で問題を解決しようとしない

kitasendo
2023-04-11

自分に何かの問題が起こつたとき、我々はまづその問題を解決しようとする。当たり前ですね。問題があるまゝでは支障があつてつらいし、放つておいてこぢれたらますます困る。だから、問題は一刻も早く解決しなければと思ふのです。

解決するためには、原因は何か、そしてそれにどう対処したらいゝかと考へなければならない。しかし我々は、「考へる」ことによつて問題を解決しようとは思つても、「考へ方を変へる」ことで問題を解決しようとは、なかなか思はないものです。

我々は考へる場合、自分の考へ方がある。その基本を二つ挙げてみませう。

① 問題は私の外側にある。
② 問題を解決するには、取り組みの行動が必要である。

かういふ考へ方の枠組みの中で、問題に対さうとします。あたかも天動説のやうに、私の考へが中心にあり、私の周りを廻つてゐる問題に対処しようとするのです。私の考へは正しく、それ自体を変へる必要はない。変はるべきは「問題である事態」だ。さういふ立場です。

ところが地動説のやうに、問題の周りを廻つてゐる自分の考へ方を変へてみるといふ発想を持つたらどうだらう。具体的には、どのやうに?

「私はなぜ、それを『問題』だと考へるのか」
と考へてみるのです。

従来は、ある事態を「問題」だと見なす自分を疑ふことはなかつた。目の前に「問題」があるのは見たまゝのことであり、それがあまりにも当たり前に思へるからです。

しかし「なぜ、それが問題だと思ふか」と考へてみると、その「問題」の原因が実は自分の中にあるのではないかといふ視点が生まれてきます。すると、「問題」の解決法についての新しい考へ方に気づく。まさに、コペルニクス的転回です。

それまでは、私の外側にある「問題」を、何らかの行動によつて解決しようとばかり考へてゐた。ところが発想が変はつてみると、自分の「考へ方」の変更によつて解決できるのではないかと思ひ始めるのです。

ある事態を「問題」だと気づくのは、私の意識です。しかし「問題」に気づいた意識に、その「問題」を解決する能力があるかといふと、ほゞない。意識の役割は「気づく」ことであつて、「解決」することではないのです。

ところがこれまで我々は往々にして、気づいた意識に解決の役割まで負はせてきたのです。

「努力して、何とか解決しよう」
「これまであのやり方でうまくいつたから、今回もそれでやつてみよう」

そんなふうに、意識を問題解決の主役に立てようとしてきたのです。しかし、よくよく冷静に考へてみると、意識にはほとんどそんな力はない。

意識にできることは何か。何かを「問題」だと思つてゐる自分に気づくことであり、その発想に変更を加へることだけです。

どのやうな変更を加へたらいゝでせうか。

「問題」を作り出してゐたのは、他でもない、自分自身であることを認める。そして、行動によつてではなく、自分自身の「考へ方」の変更によつて「問題」を解決しようと考へる。

さう言ふと多分、
「行動もせずに問題を解決するなんて、非現実的で無理な話だ」
といふ反論が返つてくるでせう。

行動を無視するのではない。必ず、何らかの行動も必要でせう。ただ、これまでの我々は「行動」に重きを置きすぎることによつて、自分の「考へ方」を変へるといふことに、あまりにも無頓着だつたのではないか。それに気づいてみようといふのです。

行動に重きを置くと、どうなるか。「問題」はある程度、何らかの形で解決した(やうに見えた)としても、自分の「考へ方」は変はつてゐない。これは本末転倒ではないでせうか。

「問題」が私の中の原因によつて起こるなら、「問題」の目的はそれを解決することではなく、私の「考へ方」を変へることで、その原因を消去することです。理想的には、私の「考へ方」が変はり、原因が消えることによつて、私の行動が変はり、「問題」が解決する。

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Admin:kitasendo