宗教改革は何を改革するのか
彼(ウェスレー)の躊躇を見た伝道者(モラビア教の牧師シュパンゲンベルグ)は言った。 「あなたはキリストをご存じですか?」 「はい、彼は世の救い主であられます」とウェスレー。 「その通りです。しかし、彼があなたを救われたことをご存じですか?」 「私は彼が私の救いのために死なれたことを望みます」 ウェスレーの答えに、シュパンゲンベルグは重ねて尋ねた。 「あなたには、自分自身というものがお分かりでしょうか?」 (『戦う使徒ウェスレー』) |
モラビア教はルター派のプロテスタント集団で、平和や平等を重視したと言はれます。上の引用にもある通り、ジョン・ウェスレーが若きときにモラビア教団と出会ひ、その影響を強く受けて、後年メソジスト運動を始めたのです。
シュパンゲンベルグはウェスレーに対して
「あなたは、自分が一体誰であるか知つてゐるのか」
と問うてゐます。
これは、ウェスレーとの対話を通して、彼がいまだキリストによつて救はれたといふ実感を持つてゐないと見抜いたからに違ひない。
つまりこの質問の背後には、
「救ひの実感があつてこそ、人は自分の正体を悟る」
といふ信仰的確信がある。
それなら、「救はれた人の正体」とは、一体どんなものでせうか。
自分の正体を知るといふことは、モラビア教に限らず、キリスト教に限らず、およそあらゆる宗教が最も深く求めてきたものではないかと思ふ。現代では、脳科学までもそれを求めてゐます。
この疑問に対する一つの回答と思へるものを、以下に引用してみませう。
神の国は、見られるかたちで来るものではない。また、「見よ、ここにある」「あそこにある」などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。 (ルカ福音書17:20-21) |
「神の国はいつ来るのか」といふパリサイ人の質問に対して、イエスが答へられたのが、この言葉です。
「自分の中に天国があると知つてゐる者」
これが「救はれた人」の正体と言へるのではないか。イエスはもとより、釈迦にしてもムハンマドにしても、聖人たちが目論んだのは、かういふ人を造ることではなかつたかと、私は思ふ。
ところが、我々はさういふ聖人たちの教へを学んだり信じたりしながらも、果たして、さういふ者になつたのだらうか。これが甚だ(深刻な)疑問です。
キリスト教はイエスの宣教を種とし、使徒たちの命がけの伝道によつてその基礎を築き、発展してきた。ところが中世に至ると、教会の中枢は腐敗堕落し、それを打破しようと宗教改革が起こつた。その結果生まれた新教の中で、ルター派はその代表といふべきものです。
新教は旧教の一体何を改革したのでせうか。
聖書を学ぶ権利を、一部の特権階級からすべての信徒たちに取り戻した。聖職者たちの干渉と形式的な宗教儀式を排し、信仰生活の拘束を解いた。それによつて初代教会の純粋な信仰に回帰し、一人一人の中に天国を再創造しようとしたのですが、それは実現できたのか。
その後、30年にも及ぶ血みどろの宗教戦争が続き、新教自体も数百の宗派に分かれたのを見れば、できなかつたと見るしかないでせう。改革といふ名を掲げたのにも関はらず、なぜできなかつたのか。
改革しようとしたそのポイントが、果たして正鵠を射てゐたのか。そこに問題があるやうに思へます。
16世紀に起こつた宗教改革ほど大規模ではなくとも、小さく地道な改革はその後も至るところで為されてきたでせう。新興宗教でさへ、発足から数十年もたてば、何らかの改革が必要になつてくるものです。
しかしその際の「改革」の核心は何か。このテーマは、決して小さく簡単なものではないので、慎重に考へを進めていく必要がありさうです。

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