正しくない人になる
「正しい人にならない」あるいは「正しくない人になる」。今後、これをもつと目指さうと思つてゐます。
「正しい人」といふのは、
「私は正しい」
と思つてゐる、正義の人です。
反対に「正しくない人」とは、
「私は正しくない」
と思つてゐる人ですが、かと言って不正義の人といふわけではない。
大抵の人は
「私は正しい」
と思つてゐるでせう。
誰かと喧嘩をするとき、
「私がおかしい。相手が正しい」
と思ひながら喧嘩をする人は、多分ゐない。
「私が正しく、相手が間違つてゐる」
と思ふから、相手の間違ひを正し、自分の正しさを証明するために喧嘩をする。
しかし当然ながら、喧嘩の相手も同じやうに考へてゐるはずです。だから、喧嘩とは「正しさと正しさの闘ひ」だと言へます。喧嘩に勝てば勿論、仮令負けたつて、喧嘩の結果、自分の正しさを手放さうとは考へないでせう。
私は大体、争ひ事が嫌ひです。なるべくなら喧嘩などはしたくない。だから表立つて「私は正しい」とはあまり言はない。
しかしそんな私でも、心の内では、
「私は正しい」
と思つてゐるのです。
正義の人が、自分の信じる「正しさ」を実践するだけなら、まだいゝと思ふ。問題は、自分の「正しさ」を基準に、他人を裁くことです。
「私は正しいことを行なつてゐるのに、あいつはなぜそれをしないのだ」
と、自分のやうに行なはないことを許せない気持ちになる。
と同時に、自分の正しさを正当に評価してほしい、評価すべきだといふ期待感が生まれる。
誰かが
「あなたがやつたことは…」
と言ふと、
「良いことだ」
と続くのを、無意識のうちに期待する。
「正しい」ことが「悪い」とまでは言へないにせよ、「正しい人」にならうとすると、他者を裁き、同時に他者からの評価と称賛を期待する。自分の目(意識)がつねに外側を向きます。そして、今自分の内部で一体何が起きてゐるのかを見つめることが難しくなるのです。
私が敢へて「正しくない人」になりたいと言ふのは、自分の目を内側に向けたいからです。だから「正しくない人」とは、もちろん、「悪いことをする人」といふ意味ではない。「自分自身を正しいと規定しない人」といふことです。
「正しい人」は、自分の正しさの尺度に合はない人を許容できない。しかし「正しくない人」は、正しさの尺度がないので、理想的には、どんな人でも許容できる。実際にはそれは無理でも、許容できる範囲が広がるのは確かでせう。
範囲が広がるほど、自分が自由になつていくことは疑ひない。

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