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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

否定も肯定もしない

2023/03/29
私の中の世界 0
2023-03-29 191427

どんな人も、どんな出来事も、一切否定しない。一切裁かない。

そのやうに決めて生きたら、人生はどうなるでせうか。

私自身、「否定しない、裁かない」といふ生活態度を心がけてはゐるものの、「一切」といふレベルにはまつたく達してゐない。そのレベルは、ほとんど不可能に見えます。

しかしそもそも、どうしてそんな生活態度を目指さうとするのでせうか。そんなことに一体どういふ功徳があるのか。

私がこのブログを始めて、およそ14年になります。その比較的初期の一時期、とても批判的なコメントが寄せられることがあつた。

「あなたは、考へ方が間違つてゐる。もう少し、よく考へなさい」
「あなたが取り上げてる○○は、まがひ物ですよ」

もとより、コメントの数は、今も昔もさして多くはない。それでも、さういふコメントが届くたびに、私はドキドキした。そして、どうリプライしたらいゝかと、ずいぶん心痛したのです。

そのときに思つたのが、
「私が自分の記事の中で何かを否定すると、その記事を否定するコメントが届くのではないか」
といふことです。

このブログ自体のコンセプトが、元々
「何かを否定する記事を書かない」
といふつもりで書き始めてゐます。

しかし、表面的には何かを直接否定するやうな言葉遣ひがなかつたとしても、よくよく自分の胸の内を探ると、何かよくないものが感じられることがある。

例へば、
「私の考へは、より正しい。それとは違ふ考へよりは優れてゐる」
といふふうな思ひ上がりがあつたりするのです。

それで私は、コメントに対しては意識的に「否定しない」リプライを心がけた。指摘に一理あるなと思へば、それを素直に認め、感謝の言葉を添へたりもした。

それでも、同じ人からときどき批判のコメントが届く。そしてその都度、同じ対応を心がけた。すると、しばらくして、その人からのコメントは沙汰やみになる。

ところがまたしばらくすると、別の人からの批判のコメントが届くのです。そしてそれが何回か続き、その内に沙汰やみになる。

いくら批判をしても、真つ向から反論しないので、「暖簾に腕押し」な感じになつて、やる気を失ふのかもしれない。最近では、批判めいたコメントはほとんど来なくなつてゐます。

批判といふのはあまり気持ちのいゝものではないが、実は、ありがたい。批判されて初めて、自分の中の「否定の想念」に気づかされるからです。

「批判すると、批判される。批判を受けるのは、自分の中の『否定の想念』の写し鏡である」
といふのは、ほぼ確からしいと、今では思ひます。

これに対しては、
「何も否定しない、何も批判しないでは、間違つたことがいつまでも正されないのではないか。日和見に思へる」
といふ懸念、反論もあるでせうね。

確かに、政治や言論の分野では、批判・反論が当たり前のやうに見えます。野党は与党を、保守はリベラルを、批判してやまない。

批判も有効な場合があるでせう。批判によつて政策を変更し、自説を控へたりすることもあり得る。今や一介のyoutuberでも、批判動画をあげて、それが再生数十万回になれば、それなりの影響があるかもしれない。

それでもなほ私は、
「一切を否定しない。裁かない」
といふ道を行かうと思ふ。

と、こゝまで書いて、はたと気がつきました。

「否定しないといふより、否定も肯定もしない」
といふのが、私の気持ちにより近いやうです。

否定しないといふのは、すべてを認めて肯定するといふのではない。

「あの人は、さう考へるのだな」
と、そのまゝを、まづは受け入れるのです。

そして、その言説や態度が私にどんな感情を引き起こすかを、素直に見つめる。もしも私がそれを否定したくてたまらないなら、「否定」の要素が私の中にあるのだといふことを認める。

それは「私が正しく、あの人が間違つてゐる」と見なすことだから、その態度を自分の中で修正するのです。言つてみれば、相手を修正しようとするのではなく、自分自身を修正する。

「私が正しく、あの人が間違つてゐる」といふ考へは、我々に麻薬のやうなエクスタシーをもたらす。自分が優位に立つことで、自尊感情が満たされるからです。

しかし、それを自分に戒める。表面には現れないけれども、かういふ一人一人の内面の修正作業こそが、この世から「否定」といふものをなくしていく、最も有効な、といふより、唯一の方法ではないかと思ふのです。

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