脳で見、脳で聞く
この季節、鶯が山で鳴き始めてゐますね。
日本人である私には、その鳴き声が
「ホーホケキョ」
と聞こえる。
しかし、当の鶯がほんとうに「ホーホケキョ」と鳴いてゐるかといふと、さうではないでせう。多分、人間の文字でそれを正確に表すことはできない。これはどういふことか。
我々は
「耳ではなく、脳で聞いてゐる」
のです。
鳴き声ばかりではない。仮令、山で鶯が熱心に鳴いてゐたとしても、私が別の何かに没頭してゐたら、その鳴き声自体も聞こえない。耳では聞いてゐるのに、脳で聞いてゐないのです。
このことを敷衍して考へると、聴覚だけでなく、五感すべてにおいて、我々は五感で感覚してゐるのではなく、脳で感覚してゐる。脳で見、脳で聞き、脳で味はつてゐるのです。
しかし、ふだんはそのことをほとんど意識しない。自分は、そのものの「ありのまゝ」を見、「ありのまゝ」を聞いてゐると思つてゐる。これがいろいろな誤解を生む元だと思はれます。
例へば、ある人を見て、
「あの人は意地悪だ」
と思つたとします。
そのとき私は、
「意地悪なあの人がゐて、私はそれをありのまゝに見てゐる」
と思ひ込んでゐる。
しかし実のところ、「意地悪なあの人」などゐない。ゐるのはただ、ある言葉や態度を、ある仕方で表現してゐる人だけです。そして私の目は、それを「ありのまゝ」に見てゐる。
それなのに、私はどうして「意地悪な人」を見てゐると思ふのか。目ではなく、脳で見てゐるからです。
そのやうに我々は、日常生活で出会ふもののすべてを、脳で見聞きしてゐる。そして、その脳で見聞きした世界を「これが本当の(ありのまゝの)世界だ」と思つてゐる。
正義感の強い人は、
「この世界には、正義と不正義がある」
と思ふ。
宗教者は、
「この世界には、善と悪がある」
と信じる。
しかし、本当にはそんなものはありはしない。あるのはただ、自分が願ふやうに考へ、行動する人だけです。
それなのに、私が自分の脳でその人を見ると、
「あの人は、私が正義だと思ふ通りに考へ、行動しない、不正義の人だ」
といふふうに見える。
鶯がいくら熱心に鳴き明かししても、私が別のことに没頭して聞く気がなければ、聞こえないやうに、私は聞こえるから聞いてゐるのではなく、聞きたいから聞こえるのです。それと同様、あの人が不正義の人だから不正義に見えるのではなく、不正義だと見たいから不正義に見える。
脳と五感の主客が逆転してゐないか、確認してみるのは大いに意義のあることだと思ふ。

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