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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

君はまだ、自分を出してゐない

2023/03/25
鑑賞三昧 0
2023-03-25 231947

Netflixオリジナルドラマ「ナイト・エージェント」の中に、こんなセリフが出てきます。

米国副大統領の娘が大学で美術を専攻し、毎日絵の研鑽に励んでゐる。彼女の描く絵を見て、教官がこんなふうに評するのです。

「君はまだ、自分を出してゐないね。隠してゐる。世界の変化を訴へるなら、自分が見られることを恐れるな」

もう一つ、別の場面。男女2人組のプロの殺し屋がゐる。女性もプロらしく暗殺に対しては冷酷なところがあるのですが、「一軒家を借りて住まない?」と男を誘ふ。

「一度ふつうの生活を試してみない? 仕事を終へて自宅に帰り、自分で料理を作つて食べ、自分のベッドで眠るのよ」

すると、男はかう答へる。
「さういふ家でそんな生活をする人は、幸せさうに見えて、幸せを装つてゐるだけだ」

米国副大統領の娘も、プロの殺し屋も、まあふつう一般の市民とは言へない。見た目は若い女学生でも、つねにシークレットサービスが警護でピタリと張り付いてゐる。父親のゆゑに、公人に近い。だから、ありのまゝの自分を自由に出すことができないだらうと推測されます。

プロの殺し屋たちも、ふつうの生活はできない。つねに身を隠しながら、こちらからあちらへと転々とし、一ヵ所に落ち着くやうな生活はできない。

殺し屋といふ稀な仕事をしながら平凡な生活を望むことはできないことを、2人とも知つてゐる。それで、「普通の人だつて幸せとは限らない」と、男は女の甘い提案を突つぱねようとする。しかし、彼の見立てがまんざら嘘だとも言へないかもしれない。

彼らから見ればかなり「ふつう」に近いと思はれる我々でも、どれだけ自分を出して生きてゐるか。「世界を変へる」などと大仰なことは言はずとも、平凡ながら自分のありのまゝを遠慮なく出す生き方ができてゐるか。2つのセリフを聞きながら、私は改めてさういふことを考へる。

「自分のありのまゝ」といふのは、一見すると、何の作為も要らないのだから簡単さうに思へる。しかし実は、「何の作為もしない」といふことが、却つて難しいと思ふのです。

我々は、知らず知らずのうちに、作為をしてしまふ。作為をしないよりするほうが、生きやすいと感じるのでせう。

何の作為もなしに、ありのまゝで生きようとすると、あまりに純粋過ぎて、この世ではあちこちで角が立つ。人と無用な衝突を起こす。だから自分を薄つすらと飾りながら、協調性のある平和な人を装つて生きる。

しかしさういふ人が絵を描くと、見る人が見れば分かるのでせう。

「この絵には、この人のありのまゝが出てゐない。何か自ら押し殺したものが隠れてゐる」

そして我々の多くは、自分の平凡な生活が幸せであると装つてしまふ。他人に対してだけでなく、むしろ自分自身に装つて自らを欺いてゐる。そしてそのことに、自分で気づかうとしない。

そもそも、我々は「ありのまゝの自分」が一体どんな自分なのか、それをよく知らないでせう。なぜかと言ふと、「概念」がそれを覆い隠してゐるのです。

「夫(あるいは妻)として、かうあれねばならない」
「父親(あるいは母親)として、かうあらねばならない」
「課長(あるいは部長でも社長でも)として、かうであらねばならない」

さういふさまざまな「ねばならない」がある。それは私の思考が作り出す「概念」としての私の姿なのです。

それはまた、人間関係において演じる「自分の役割」と言つてもいゝ。そして、いつの間にか、その「役割」を「自分」と思ひ込み、「ありのまゝ」の自分が見えなくなる。

それなら、「ありのまゝの自分」とは、どういふものなのか。私もこれを、言葉ではうまく説明できない。実感してゐるかと言へば、それも怪しい。

仏教はそれを「真我」と言つたり「仏性」と表現したりする。聖書では「生命の木」と呼んだりもする。哲学で「実存」と称するのも、それに近いでせう。

ともかく、自分からも他人からも、表面上の「役割」を剥がしてみないことには、「ありのまゝの自分」は現れてこない。

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