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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

求めれば、神は何をくださるか

2023/03/23
信仰で生きる 0
聖書
2023-03-23 153908

何で読んだか(あるいは聴いたか)思ひ出せないのですが、
「どんな熱心な祈りも、神に無視されることは決してない」
といふ言葉が頭に残つてゐます。

そしてもう一つ、
「神は我々が祈り求める前から、我々に何が必要であるかをご存じである」
とも聞いた記憶がある。

それとこれとを合はせ、今考へてみると、
「神は我々の祈りの内容よりも、むしろ祈りの熱心さに関心がある」
といふふうに思へます。

我々の祈りが熱心であればあるほど、神はより多くを与へようといふ気になられる。しかも、与へるものは、必ずしも私が祈り求めたものではない。神が私にとつて最善最適と思はれるものが与へられる。

もしもさうだとすれば、我々は神との関係、そして我々が神から受け取るものについて、少し(ひよつとすると、かなり)頭を切り替へる必要がありさうです。

我々は、神が全知全能だと思ひながら、神に祈る。自分が願ふものを、神がその気になれば供給できないはずがないと思ふ。もしも私が尋ね、答へを求めるなら、それにも最善の答へが返つて来るだらうと期待する。

神は確かに私の祈りを聞かれるのかもしれない。しかし関心があるのは、その熱心さであり、しかも私に何が必要なのかを、私以上にご存じであるとすれば、神の反応は私の期待通りではない可能性があります。

そのやうに言ふと、聖書
「求めよ、さうすれば与へられるだらう」
といふ聖句を思ひ出すかたもおられるでせう。

続いて、かうも言つてゐます。

自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、蛇を与える者があろうか。
(マタイ福音書7:9-10)

してみると、やつぱり、我々がパンを求めれば、神はパンを与へる。魚を求めれば魚を与へる。そのやうにも読めます。

しかし、人間の親ではなく神だからこそ、パンを求めれば石を与へるかもしれない。もしかすると、パンよりもはるかに豪華なご馳走が来る可能性もあるが、何が来るかは人知を超えてゐて、何とも言へない。

さうだとすると、祈つたあと、私はどうしたらいゝのでせうか。

「私の目の前に起こるすべての現象が神からの回答である」
さう思つて対応するのが、私にとつての最良の選択ではないかと思はれます。

パンを求めて、パンが与へられても、石が与へられても、豪華なご馳走が与へられても、すべては神からの回答だと考へる。パンを求めたのに、なぜ私に石が来るのか。その意味は、私には分からない。それでもたゞ、それが神からの回答だと受け取るのです。

「パンを求めたのに石が来たのは、石が今の私には最善の回答なのだらう」
と考へる。

パンを求めたらパンが来るのが当たり前だと考へるなら、それは自分を神の上に置くことでせう。そのとき、神は主人の求めに応じて仕へる僕に過ぎない。

神と私との本来の関係からすれば、何であれ、私の目の前に現れたものに神の意志があると考へる。それが妥当な考へではないでせうか。

だから、少し極論すれば、私が何を求めるかはあまり意味がない。むしろ、求める熱心さがどれほどであるか。そのほうが重要です。

そして熱心に求めたなら、そのあとは、目の前に現れたことをすべて受け入れ、それに対応する。神を不信しない。

「神はなぜ、こんなものを私にくれたのか」
などと、決して恨まないことです。

さうでないと、せつかくの神の深謀遠慮が生かされないことになります。

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