隣人を愛するほど、自分を愛せる
数ある律法の中で、最も重要な律法は何ですかと問はれたとき、イエスは二つあるうちの第二として、
「自分を愛するやうに、あなたの隣人を愛しなさい」
と教へられた。
この簡潔な教示について、私は繰り返し何度も考へることがあるのですが、最近になつて、ふと思つたことがあるのです。
「そのまゝ聞けば、自分を愛することが先で(あるいは、それが前提で)、隣人を愛することがそのあとに来るやうに思はれる。しかし実は、逆ではないだらうか」
つまり、「隣人を愛する」ことが先なのではないか。
といふより、もう少し正確に言ふと、
「隣人を愛するほど、自分を愛せるやうになるのではないか」
と思つたのです。
隣人を愛するにしても、自分を愛するにしても、「愛する」といふのは少し茫洋として分かりにくいところがあります。特に「自分を愛する」と言へば、「自己愛、自己中心」とも誤解されて、真意が掴みにくい。
そこで、「愛する」の代りに、「(あるがまゝ)受け入れる」と考へてみます。
すると、
「隣人を受け入れることが、すなはち、自分を受け入れることである」
と言ひ換へられます。
隣人を受け入れることが簡単かと言へば、さう簡単ではない。
私の言ふことを何でも聞いてくれる人、私を一切イライラさせない人なら、受け入れやすいかもしれない。しかし現実には、さういふ人はごく少数で(といふより、ほぼゐないでせう)、大抵の人は私の気に障る。ある部分は許容できても、かういふところはどうしても気に障る。さういふ人ばかりと言つてもいゝ。
さういふ人を一人でも多く受け入れるには、どうしたらいゝでせうか。受け入れる私の器を大きくするしかない。気に障つてゐた部分が気に障らない私にならねばならない。
一緒にゐるとどうしてもイライラしてしまふ人がゐたなら、その人を受け入れるには、どうしたらいゝか。その人に対してイライラしない私になるしかないでせう。
実際には、
「あなたは、私をイライラさせない人になつてくれ」
と言ひたいところだとしても、そんなことは頼めないし、もし頼んだとしても、それを素直に聞いてくれる人はまづゐないでせう。
だから、私自身が自分の許容範囲を何とか広げて、さういふ人にもイライラしない私になるしかないのです。言ひ換へれば、その人を「あるがまゝ」に受け入れるしかない。
しかし、もしそのやうに自分を変化させて、より多くの隣人を受け入れられる私になることができれば、どうなるか。私は、私自身を受け入れる私に変化できるのです。
自分自身を受け入れるとは、結局どういふことでせうか。
「あの人だけは受け入れることができない」
と思つてゐた私を
「あの人も受け入れることができる」
といふ私に変へることです。
「できない私」を「できる私」に変へる。これが「私自身をより多く(寛容に)受け入れる」ことだと言つて、おかしくないのではないか。つまり、「誰かを受け入れる」と思つてゐたら、実のところそれは、「自分を受け入れる」ことだつたといふわけです。
我々は、
「隣人を受け入れることは容易でないが、自分自身は受け入れてゐる」
と思つてゐるかもしれない。
しかし意外にも、我々は自分をあまり受け入れてゐない。もしかすると、難しい隣人よりも自分のほうを、もつと受け入れてゐない可能性すらある。
最も近い隣人である「自分自身」を受け入れて(愛して)ゐない私。「この人も、あの人も受け入れることのできない私はダメな私だ」と、自分自身を責めてゐる。これが私の姿の実相かもしれないのです。
さういふことなら、イエスの教へられた律法の方向性は明瞭になります。
「より多くの人を受け入れることのできる自分になりなさい。さうすれば、あなたはより多く自分自身を受け入れることのできる自分になる」

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