神の真実に対する誤り
原因は最初の誤りにある。神の真実に対する誤り、神を信頼しないという誤りだ。だから、神の愛を頼れない。神が条件つきであなたがたを受け入れると思う。神の愛がつねに存在すると信じられなくて、いったい誰の愛を信頼できるのか。 (『神との対話1』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
ニールに語る神によれば、我々には誤りがあるといふ。神を信頼しないといふ誤り。神が条件つきで我々を受け入れると思ふ誤り。自分の中に本当にそんな誤りがあることを、我々は認定できるでせうか。
神を信じない人が神を信頼しないといふのではない。神を信じる(と思つてゐる)人が、その実、神を信頼してゐないといふのです。これが本当なら、相当深刻な話です。
神を信じる人の、このやうな矛盾。その発端は、「最初の誤り」にあるといふ。それは、いつ、どこで起こつたのでせうか。
神の全体的な話から推察するに、「最初の誤り」は2つあると思へます。
一つは、私自身の愛の体験。もう一つは、宗教の教へです。
一つ目については、私自身が「条件つきでない愛」を体験したことがない。最も無条件に近いと思はれる親の愛でさへ、何らかの条件がついてゐる。
「これをすれば、ご褒美をあげるけど、あれはペナルティ」
といふ場面が結構多いのではないでせうか。
だから、いつの間にか、
「親の愛をもらふには、この条件を私が満たさないと」
といふ無意識が我々の中に形成される。
体験したことのない「条件つきでない愛」を、我々は信じることはできても、知ることはできない。それが神の愛を頼れない、最初の誤りです。
二つ目の宗教の教へについて、神はかなり厳しい。
聖書には、神の愛は条件つきでないと示唆する聖句があります。
ある人に100匹の羊があり、その中の1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、迷える1匹を探しに出かけないであろうか。… そのように、これらの小さい者の一人が滅びることは、天の父の御心ではない。(マタイ福音書18:12∼14) 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ福音書3:16) |
ところが、このやうな聖句がある一方で、これまでの宗教は往々にして、罰する神、恐ろしい神を教へてきた。愛の神、救ひの神と言ひながらも、これこれの罪を犯せば許してはおかないといふのです。
すると、神を信じようとする人たちはとても困惑する。一方では愛の神であると教はり、もう一方では罰する神であると教はる。頭の中で神のイメージが矛盾を起こすことになるのです。
そこで彼らの姿は、神を愛さうとしながらも神を恐れるといふことになる。これは考へてみると、実に奇妙な話ではないでせうか。
聖書が「迷える1匹の羊」と言ひ、「この世を愛する」と言ふとき、それは「神を信じないあらゆる人」までも含むことになるでせう。例へば、所謂悪人、非信仰者、無神論者などもその例外ではない。
さういふ人たちは、神なんて端から念頭にはなく、神の愛とは無縁に、自分のしたい放題で生きる。愛の神を信じないが、それでゐて、罰する神も知らないから、神を恐れることもない。
すると、こゝで一見おかしなことが起こる。
「神を信じる者は神を恐れ、神を信じない者は神を恐れない」
これではなんだか、神を信じる者のほうが哀れな感じさへします。こんなことで、信仰者は一体この世を凌駕できるのか。
「御子を信じる者が一人も滅びないで」とあるので、非信仰者を信仰者にし、救ひ主を信じるやうに仕向けなければならない。何と言つてさうするのでせうか。
「あなたも愛の神を信じなさい。その神は何の条件もつけずにあらゆる人を愛して救はうとするかたです。私たちはそのことを『信じて』はゐますが、一方でそのかたは罰する恐ろしい神でもあるやうなので、くれぐれもお気をつけください」
そのやうに説得すれば、無神論者も喜んで有神論者になつてくれるでせうか。自分自身がその愛を信頼できず、恐れる神を、どうやつて人に勧めるのか。どんなに教義が立派でも、信仰者の心の奥深くに横たはる「神を信頼しないといふ誤り」を正さないことには、決して埒があきさうには思へないのです。

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