自己完成の責任
万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この(成長)期間を経過して完成するように創造された。 (『原理講論』創造原理第5節) |
こゝで出てくる「責任」といふ概念。これの意味を辞書的に押さへると、「立場上、当然負はなければならない任務や義務」となります。
「立場上」とは、この場合、「人間である」といふことです。「任務あるいは義務」とは、「指定された木の実を取つて食べないで完成する」といふことです。
さらに、その責任を果たせなかつた場合は、どうなるか。失敗や損失による責めを負ふことになります。
それを聖書は、
「それを取つて食べると、きつと死ぬであらう」
といふ神の警告として表現してゐます。
聖書は「取つて食べた」ことを「罪」と見なす。だから、「死」といふ代価をもつて、その「罪」に対する責めを負ふといふことです。
ところで、もし「取つて食べずに」責任を果たしてゐたら、どうなつてゐたか。「完成」してゐたはずでせう。神が人間に与へた責任とは、「完成する」といふことに限定されてゐたのです。こゝに注意を向けるべきだと思ふ。
我々は身近な社会生活の中で考へると、例へば、親になれば親の責任がある。勤める会社で課長になれば、その課に対する責任がある。「立場上」の任務と義務が生じると考へるのです。
ところが、『原理講論』で言ふ「責任分担」は、さういふものと同列に考へることはできないと思ふ。「自己完成」の責任は、人間関係や社会的な立場での責任と、何か根本的に違ふやうな気がするのです。
一見すると、社会的な責任のほうが「自己完成」の責任より、範囲が広いやうにも見える。「自己完成」は自分だけのことなのに対して、社会的責任には多くの他者が含まれるからです。しかし、真相はむしろ反対で、「自己完成」の責任こそ、あらゆる責任を内包してゐる。そのやうに思へるのです。
「自己完成」とは何か。それは何を達成しなければならないのか。
「私の身に起こることはすべて、私の責任である」
「自己完成」の中には、さういふ責任感を完成させるといふ要素があるのではないかと思ふ。
「私の身に起こること」とは、どういふことでせうか。文字通り、私が体験することなのですが、ふつうに考へるより、よほど広範囲のものを含みます。
私が誰かに会つて、嫌な思ひをした。これはもちろん私の体験です。子どもが学校で何か問題を起こした。これももちろん含みます。子どもが問題を起こしたといふ事態を、私が体験してゐるのです。
今朝ニュースを見てゐたら、中東のどこかで紛争が起こつたといふ。これはどうでせうか。これも、その事態を知つたといふ私の体験です。
このやうに考へると、私の身に起こることはいくらでも広がる。それゆゑに、これに責任を持たうとすれば、社会的な責任などもすべて含んでしまふのです。
もつとも、こゝまで一気に話を広げるとやゝこしいので、今は子どもの問題の範囲で考へてみませう。
子どもの問題を解決するには、何らかのアクションが必要だと考へるのふつうです。しかしそのアクションの前に、「これは私の責任である」と考へること。これが、ある意味で、アクション以上に重要だと思へます。
すぐにアクションを起こす場合、我々は大抵、
「この問題は、子どもに原因がある。さうでなければ、学校に問題がある」
と考へやすい。
それでも正直な人なら、
「私の育て方に問題があつたのかもしれない」
くらゐは自省するでせう。
それは悪くはないが、本当の問題(本当の私の責任)は、育て方のその奥にあるのです。
「私はどうしてそんな育て方をしたのだらうか」
といふ問題です。
この問題は、平常において、私自身にも隠されてゐて、気がつかない。それが子どもの問題によつて、私の意識に浮かび上がつてくるチャンスを迎へる。
私がふだん、どのやうに子どもを見てゐるのか。さらに遡れば、私は自分自身をどう見てゐるのか。さういふ次元の問題が、実は表面的問題の奥に横たはつてゐるのです。
私のものゝ見方の歪み。これが子どもの問題として出てくる。
こゝに気がつくと、問題の真の原因は私以外のどこにも(子どもにも学校にも)ないことが分かる。それで、私の本当の責任は、私の中の問題を解決することだと思はれくるのです。
これが、人間といふ「立場上」、私が「完成」するために、どうしても負はなければならない「責任」です。

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