「あること」に軸をおく視点
何らかの問題が起こつたとき、視点が2つあると思ふ。
一つは、その問題を「どうやつて解決するか」といふ「やること」に軸をおく視点。
そしてもう一つは、その問題を「どのやうに見、どのやうに扱ふ自分であるか」といふ「あること」に軸をおく視点です。
そして、我々は往々にして、第一の視点に主軸をおくことに慣れてゐる。
一例を挙げてみませう。
親として、我々は始終子どものことが気になるものです。学校に通ふ時期は、ちやんと勉強してくれるかと気をもみ、卒業するころには、ちやんとした仕事に就いてくれるかと心配する。年頃になれば、良い結婚相手が見つかるかとやきもきし、いざ結婚をすれば、今度はうまくやつていけるだらうかと不安になる。
勉強に身が入らない。あるいは、結婚生活がうまくいかない。さういふ様子が見えれば、親として何とかしてやらねばといふ気持ちになる。とにかく、親として「やること」に頭が回るものです。
ところがさういふとき、
「私はこの問題をどんなふうに見てゐる自分だらうか」
と振り返つてみることがあるでせうか。
「どうして私は、子どもの問題をこんなふうに心配してゐるのだらう? この心配は、一体どこから来てゐるのだらう?」
そんなふうに自分自身の「ありやう」を、ぢつくり見つめる人がどれくらゐあるでせうか。
「やること」が無用であるとは言へない。子どもを叱咤したり、助言を与へたりして、問題は改善の方向へ向くかもしれない。しかし、「やること」に頭が取られ、解決の方法に集中するとき、私の「ありやう」は、得てして視界から外れてゐます。
仮に、問題が改善したとしても、その前と後とで、私の「ありやう」は変はつただらうか。問題が改善したことに安心して、それで終つてしまふ。あるいは、問題が一向に解決せず、悩みだけが残つてしまふ。さういふ可能性があります。
問題が起こると、それを解決しなければといふことに意識がフォーカスするものです。しかし本当のところ、問題は私の「ありやう」を変へるために起こる。その問題を通して、私自身が変はること、特に、私も「ものの見方」が変はること。これこそが、問題の真の意味だと思ふ。
「子どもが勉強に身を入れない姿を見て心配する私の中には、一体どんな問題があるのだらう?」
「子どもの結婚後のことまで気にかけることは、私の人生にどんな意味があるのだらう?」
そんなふうに自問していくと、それまで見えなかつた自分の隠された姿が見えてきます。
例へば、子どもの心配をしてゐるやうに見えて、実は、さういふ子どもを持つてゐる親としての自分の見栄や世間体を心配してゐたことに気づく。子どもの人生を自分の人生と同一化してしまつて、自分の人生の課題を見てゐなかつたことに気づく。
私の人生の中で起こる、いかなる問題も、私の「ありやう」に気づいて、それを改善していくチャンスとして起こる。
さう言へば、
「自分の人生ばかり見てゐて、子どもを助けてやらなくていゝのか」
と問はれるかもしれない。
その問ひに対しては、
「一人の人間としての私自身のありやうを変へることこそが、最も効果的に子どもを助ける方法である」
と答へたい。

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