幸福でゐる方法
人間は、何人(なんびと)といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。 (『原理講論』総序) |
大著の書き出しとして、いかにも力のこもつた、なかなかの名文だと思ふ。特に「もがいている」の一句は、印象が強烈です。
我々は誰でもみな、幸福になりたくて「もがいている」。水に落ちて、溺れさうになり、藁にもすがる思ひで「もがく」。「もがく」には、さういふ必死な響きがあります。
そのあとにも、
「本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けている」
とか、
「本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である」
などといふ文言が続きます。
「幸福といふものは、生半可な努力で手に入るものではない」
といふ含意が滲み出てゐます。
それで、かういふ内容を学ぶと、どうなるか。
「私は、完璧とはもちろん言へないにせよ、それなりに幸福だと思つてゐたけど、本当の幸福ではなかつたんだ。本当の幸福を得るには、これからまだまだ遠い道のりを努力していかないといけないんだ」
と思ふ。
と同時に、今の自分がさほど幸福でないと感じても、それは当然なんだと正当化することもできる。
「幸福を求める人は、今、幸福ではない」
これを「幸福のパラドクス」と呼んでもいゝでせうか。
このパラドクスに甘んじてもいゝかもしれない。しかし、「今すぐに幸福になる術はないのだらうか」と思案してみることもできると思ふのです。少なくとも、さほどの難行を経ずして幸福になる道はあるかもしれない。もしあるのなら、さういふ道を模索してみてもいゝでせう。
「そこに行き着く」道は「そこにいる」ことだ。行きたい場所にいなさい。幸福になりたいか? では、幸福でいなさい。愛がほしいか? では愛になりなさい。 (『神との対話3』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
初めてこの言葉に出会つたとき、私にはかなりの違和感があつた。だつて、さうでせう。「そこに行き着きたい」なら、今ゐるところからそこに向かつて移動しなければならない。それが当たり前の考へかたのはずです。
ところがこの神は、
「そこに行きたければ、そこにゐなさい。幸福になりたければ、幸福でありなさい」
と言ふ。
こんなおかしなことはない。まつたく論理的ではないやうに見えます。しかし、もしこれが意外にも理に適つた話なら、幸福になることはさほど難しいことではないかもしれない。さういふ希望も感じられます。
私が今もし幸福でないとすれば、幸福を妨げてゐるのは一体誰でせうか。給料を上げてくれない会社でせうか。美味しい料理を作つてくれない配偶者でせうか。しょっちゅう故障するマイカーでせうか。
自分の思ひ通りにならないもの。一見すると、さういふものが私の幸福を妨害してゐるやうにも見えます。しかし実際はさうではない。私を幸福にしないものは唯一つ、私以外にないのです。
「私は今幸福ではない」
と私が思ふ限り、他の誰がそれを否定しても、私は決して幸福になり得ないでせう。
反対に、明日の食費もまゝならないほどであつたとしても、
「私は幸福だ」
と思へば、誰があざけらうと、私は決して不幸にならない。
さういふ意味で、私は自分の幸福の(唯一の)創造主であるといふことができます。この創造主になるために、私はこの世に生まれてきたと言つてもいゝと思ふ。
総序は、いかにも幸福を得ることが難しいやうに言つてゐます。しかし、難しいのが事実だとしても、難しいのは「不幸から幸福へ行き着く」道のりが難しいのではない。幸福でゐる方法(コツ)を見出すのが難しいだけなのです。方法さへ見つけ出せば、幸福でゐることはいともたやすい。
神から
「幸福でありなさい」
と言はれれば、「はい」と言つて、その日のうちに幸福でゐることが可能です。

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