答へを求めない
学校で出される試験問題には、必ず答へがある。それが当たり前だと思って、教育を受けてきた。ところが、現実の生活では、容易に一つの答へが出ることばかりではない。むしろ、答へが出ないことのほうが多いといふのが実感でせう。それが悩みの種になる。
評論家の小林秀雄は、「質問と答へ」について、こんなふうに言つてゐますね。
実際、質問するというのは難しいことです。本当にうまく質問することができら、もう答えは要らないのですよ。僕は本当にそうだと思う。 僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって、答を出すこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる。 質問するというのは、自分で考えることだ。僕はだんだん、自分で考えるうちに、「おそらく人間にできるのは、人生に対して、うまく質問することだけだ。答えるなんてことは、とてもできやしないのではないかな」と、そういうふうに思うようになった。 (『学生との対話』小林秀雄) |
人生の問題に悩むと、答へがほしくなるから、哲学書を読んでみたり、宗教の門を叩いたりもするでせう。人によつては、もつと手つ取り早く、占ひなどに尋ねてみようと思ふかもしれない。占ひ師に「質問」して、彼から「即答」を得ようと考へるわけです。
ところが、これはあまり賢明な方法ではないと思ふ。
小林流に言へば、まづ、正しく訊くことができてゐるか、といふこと。そして、なぜ自分で考へないのか、といふことです。
小林は、もし仮に正しく訊くことができ、自分で考へ尽くしたとしても、それでも人生の難題に、おいそれと答へなんか出てきやしないと観念してゐる。これは正しい姿勢だと思ふ。
仮に、答へ(らしきもの)が出てきたと思へたとします。ところが、さう思つたとたん、あらゆる答への可能性が、その一つに収束してしまふのです。比喩的に言へば、100の答へがあるのに、その中の一つだけを取り出すことで、残り99の答へを捨ててしまふことになる。これはあまりに勿体ない。
可能性の収束について、量子力学はかなり突飛な見解を採用してゐますね。
我々が観測するまでは、あらゆる物事は「可能性」として存在する。「可能性」として存在してゐるものが、観測したとたん、一つの「現実」に収束してしまふ。
量子を使つて実験を繰り返した結果、さう考へざるを得ないと結論したわけです。
しかし、我々が日常見慣れてゐるのは、一つの現実に収束した世界です。こゝに生きてゐることに、我々は慣れてゐる。だから、可能性が可能性のまゝで存在し続けることは、むしろ不安でしやうがない。一刻も早く、一つの現実に収束させたい。さういふ焦りを感じるでせう。
それで、いろいろなものに訊いて、即答を得ようとする。
そして答へを聞いて、
「あゝ、なるほど、さうだつたのか。かうすれば、問題は解決するのか」
さう思へると、何だかとても安堵する。
ところが、その裏で何が起こつてゐるか。収束した答へ以外の、すべての答への可能性を排除してゐるのです。
そして、
「これ以外に、もつと良い答へはないのだらうか」
と問はうとする思考を停止してしまつてゐる。
そのことを、うつかり見過ごしてゐるのです。
どうしたらいゝのか。
訊き続けるのです。繰り返し訊きながら、それでゐて答へを求めない。答へをつねにオープンにしておく。分からないことは分からないまゝにしておくのです。
我々も、少しばかり物知りになつて、他人から相談を受けるやうなことがあつても、うつかり答へらしきものを与へないほうがいゝだらうと思ふ。
「あつちがいゝか、こつちがいゝか、よく分かりませんね。あなたが十字路に近づいてきたら、何か新しいものが見えてくるかもしれません。そのときに判断してください」

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