私の現実は、どこにあるか
「私の現実は、どこにあるか?」
と問へば、ふつうには、
「私の目の前にある」
と考へるでせうね。
今、私の目の前で刻々と展開されてゐる現象。それが現実である。この考へに不都合はないやうに見えますが、実はこゝに、かなり深刻な誤解があると思ふ。
それなら、現実は一体どこにあるといふのか。
「私の現実は、私の目の前ではなく、私の頭の中にある」
これがより真実に近い答へだといふ気がします。
一例を挙げて、考へてみませう。
16世紀にコペルニクスが「地動説」を唱へるまで、大抵の人は、
「私の周りを天体が回つてゐる」
と考へてゐたでせう。
それが「私の現実だ」と信じて(体感して)ゐたわけです。
ところが、コペルニクスが現れて、
「いやいや、さうではない。地球が太陽の周りを回つてゐる。これが現実なんだ」
と言ひ始めた。
さて、一体どつちが本当の現実なんだ? 科学教育を受けた我々なら、ほぼ例外なく、地動説が現実だと言ふでせう。
そして、
「天動説は、一見すると現実のやうに思へるけど、それは幻想なんだ」
と信じて疑はない。
しかしさう信じてゐる人のほとんどは、実際にそれを自分の目で確かめたわけではない。コペルニクスだつて、さうです。
宇宙に出て確認したわけではないのに、
「観察と計算からすると、かう考へたほうがよほど理に適つてゐる」
といふ確信から、自説の正しさを信じた。
彼にとつて、天体の現実は目の前にではなく、彼の頭の中にあつた。さう言つても、おかしくはないでせう。そしてこれは、我々においても同様です。
この話は、天体の現実に限らない。敢へて言へば、我々は現実を「見てゐる」のではなく、「作り出してゐる」のです。
私の日常において、太陽が昇り、沈んでゐるだけではない。多くのものや人が動き、私と関はり、過ぎ去つてゐます。それらはすべて「現象」です。
私が実際に見てゐるのは、その「現象」であり、それが私の「思考」や「感情」と結びついたときに、「私の現実」になる。だから、同じ「現象」を見てゐたとしても、人ぞれぞれに「私の現実」はみな違ふ。「現実」は、人によつて、同じものは一つもないと言つていゝでせう。
最近の実例で言へば、国会に提出された行政文書を巡つて、与野党、政府の間で論戦が続いてゐます。行政文書が提出されたこと自体は一つの「現象」と言つてもいゝが、「現実」は一つではない。それに関はる人ばかりでなく、それを報じるマスメディア、さらにはそれを見聞きする多くの国民それぞれにとつて、その人数に等しい数の「現実」が存在するのです。
もつとも、こんな国会論戦などを挙げるまでもない。ごく身近な家族の喧嘩であつても、事情は同じで、一つの「現象」に違ふ「現実」を見てゐるといふことに気がつかないと、事態は紛糾して容易に収まらないでせう。
「現象」を見るとき、必ず、私なりの「思ひ」や「感情」をフィルターにするのですが、そのフィルターはどこから出てくるのか。多分、自分でも気がつかないほど深いところ、無意識から出てくるのだと思ふ。
だから、
「私はなぜそのやうに思ふ(感じる)のか」
と自問しても、自分にもよく分からないのです。
さうすると、「現実」は無意識が作り出してゐる。そして「私(といふ意識)」がその「現実」を見てゐる。
それはほぼ、仕方ないほど自然なものとして、我々の身についてゐる。ただ、それは無意識が作り出した「現実」であり、私と相手は別々の「現実」を見てゐるのだと(意識が)気づくこと。これが肝心なところです。
意識は無意識の後を追ひながらも、無意識の動きに気づいてこそ、無意識に働きかけ、それを訂正していくことができると思ふ。

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