われ、思はせられる
17世紀の哲学者デカルトは、
「われ思ふ、ゆゑにわれ在り」
といふ有名な言葉を残した。
「自分が絶対的な確実性をもつて知り得ることがあるか?」
と考へ詰めた挙句に、彼が出した答へです。
この答へはつまり、「わたし」のアイデンティティを「思考」と同一化したものです。デカルト自身は、これによつて究極の真実を発見したと考へたけれども、この答へにはある重要なことが見過ごされてゐる。それに気づいたのが、同じフランス人哲学者、サルトルです。
サルトルはデカルトの言葉を慎重に吟味してゐるうちに、
「『われ在り』と言つてゐる意識は、考へてゐる意識とは別だ」
といふことに気がついた。
つまり、
「自分が考へてゐることに気づいたとき、気づいてゐる意識は、その思考の一部ではあり得ない。別の次元の意識だ」
といふことです。
このことに気づくのに、実に300年近くがかかつてゐる。それほどに、「われ」の正体を見極めるのは難しいといふことでせう。
「私」が考へてゐることを見つめてゐる別次元の意識。それを何と呼べばいゝのでせうか。さらに遡行すれば、別次元の意識を見極めるのが難しいと言つてゐるのは、一体何者なのか。藪の中に迷ひ込みさうですね。
こゝでは藪を避け、別の一点を考へてみようと思ひます。
「われ思ふ」と言つたとき、その「思ふ内容」は一体どこから来るのか。あるいは、本当に「思つてゐるのか」、もしかして「思はされてゐる」といふことはないのか、といふことです。これも藪かな。
「われ」を「自我」とも言ひ、英語では「エゴ(ego)」と呼んだりもする。この「エゴ」から派生して「エゴイスティック」と言へば、ふつうには「自己中心」などと訳されます。「われ第一主義」と言つてもいゝでせう。
ところで、この「自己中心」といふことをデカルト流に考へれば、
「頭の中の思考の主(ぬし)が自分である」
と思ひ込むこと、とも言へると思ふ。
思考の要素はいろいろあります。
記憶:過去にこんなことがあつた。その私の体験から考へると…。
解釈:私の理解の仕方から考へると…。
反応:そのことに対して、私はかう対応せざるを得ない。
感情:そんなことをされると、私は怒りを感じる。
これらのすべてに「私」が必ずつきまとつてゐます。これが「エゴ」と呼ばれる「私」ですね。
しかし本当は、サルトルが気づいたやうに、「エゴ」が考へてゐることをぢつと見てゐる別次元の意識があるのです。
その意識から「エゴ」が考へてゐることを観察すれば、
「自分が考へてゐるやうに思つてゐるが、本当は思はされてゐる。それに気づかないのかなあ」
といふふうに見える。
「エゴ」は何によつて考へさせられてゐるのか。一言で言つて、「記憶」が隠れた主人である。さう言つていゝやうに思ひます。
私には生まれてこの方の記憶が蓄積されてゐる。その記憶が私に習慣的な役割を演じさせ、逆に、その役割を通してまた新たな記憶が蓄積される。そしてその記憶によつて、「私」は考へさせられてゐるのです。
デカルトが言ふやうに、「われ思ふ」ことは決して避けられない。「私」はどうしても「思はざるを得ない」存在です。ただ、「思つてゐる」やうに見えて、実は「思はされてゐる」。そのことに気づくこと。そしてできる限り記憶から自由になること。これが重要だと思ふ。
さうすれば、
「われ、記憶に左右されず、自由に思ふ。そのとき、その思ひは別次元の意識の思ひに合致する」
といふやうになるのではないか。

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