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いかにして、灯る電灯になるか

kitasendo
2023-03-08 222032

オペラ「フィガロの結婚」の中で、「恋とはどんなものかしら」と題して、こんなふうに歌はれます。

あなた方は知ってますよね、
愛とは何か。
女性の方たち、確かめて下さい
僕の心を。

愛情を感じつつ、
欲望に満ちているのです。
今は、喜びであり、
同時に苦しみでもあります。

「知ってますよね」とは歌ふものゝ、女性たちは本当のところ、「愛とは何か」を知らないでせう。知つてゐる(感じてゐる)のは「愛」ではなくて「愛情」のほうです。実感してゐる「愛情」とは、「愛情」のやうでもあり、「欲望」のやうでもある。「喜び」だと思つたら、すぐさま「苦しみ」に変はつたりもする。

「愛」と「愛情」とは分けて考へないと、混乱するでせうね。私なりに思ひ至ることを書いてみます。

愛情は実感しやすい。昼休みになつて弁当を開くと、所狭しと色とりどりのおかずが並んでゐる。それを見ただけで、お母さんの愛情を感じるでせう。

さういふお母さんの愛情は、どこから来たのか。その奥に「愛のエネルギー場」があつて、愛情はそこから現象化したのです。

そこで、こんなふうに言へます。

「愛とは、一つのエネルギーの場である。その中で、もの(人)同士の相互作用によつて現象化するのが愛情である」

「エネルギー場」と言へば、電磁場とか重力場などと呼ばれるものもあります。その中でも、「愛の場」には一つの際立つた特徴があると思へる。

それは、
「すべてを、あるがまゝに受け入れる」
といふことです。

どんなものがその場に入つてこようとしても、それを一切拒まない。あるいは裁かない。そのものを「あるがまゝ」に受け入れる。なぜなら、それが愛自体の性質であるからで、必然的に「愛の場」もそれを反映したものになると思ふのです。

聖書の言葉を参考にするなら、
「主の霊のあるところには、自由がある」(コリント後書3:17)
とあります。

こゝで言ふ「主の霊のあるところ」が「愛の場」です。そこでは互ひを「あるがまゝ」に受け入れるので、本性の自由があるのです。

ところが現実には、なかなかさうならない。大抵は、条件つきで受け入れるのです。だから、愛情も条件つきになる。

「かうしてくれれば、私はあなたを愛する」
といふ条件をつける。

夫婦でもさういふことはあるし、親子でさへあり得ます。条件をつけて相手を縛るので、そこには自由がないのです。それで、愛が鬱陶しくなる。

「愛の場」は本来、純粋な「あるがまゝを受け入れる」自由なエネルギーの場であるのに、そこで現象化する愛情はなぜ、条件つきで不自由なのでせうか。

比喩的に言へば、我々自身が絶縁体になつてゐる。スイッチを入れても灯らない電灯のやうに、エネルギーがあつても、それをうまく通さないのです。

私が絶縁体である最も深い原因は、思ふに、私が私自身を「あるがまゝ」に受け入れてゐないところにある。私の今ある姿を拒み、裁いてゐる。

「このまゝではだめだ」
「これからもつと成長しなければ」
などと自己評価して、今の自分を責め立てます。

向上心があるやうに見えて、実は、今の自分の中に「神の似姿」を認めてゐない。かなり深い病です。

イエスは、
「自分を愛するやうに、あなたの隣り人を愛せ」
と教へられたけれども、実は「自分を愛する」といふことが、意外と我々にはうまくできてゐないのです。

いかにして、「あるがまゝ」の自分を受け入れて、灯る電灯になるか。それが私の人生の課題です。

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Admin:kitasendo