許可を出したのは私である
我々の人生には、大小さまざまな苦痛が起こる。その苦痛をどう受け止め、どう対処するかといふことが、我々の人生そのものだと言つても過言ではないやうにも思へるほどです。
苦痛の対処法について『原理講論』が具体的に触れてゐる箇所があります。
苦痛の由来を
「悪霊の再臨現象」
と見ます。
私に対する神の恩恵を拡大するために、神は一つの摂理を計画する。悪霊を私に送つて、苦痛を与へるのです。そしてそのとき、私がその苦痛を「甘受」すれば、それを条件として、計画通り、より大きな恩恵を与へる。
この計画には、ありがたいことに、さらに重層的な計らひがある。私が甘受すれば、私だけでなく、悪霊までも同様の恩恵を享受できるといふのです。
ところで、これは神の摂理だといふのですから、その計画者はもちろん神に違ひない。しかし、計画立案の際、私は関与しないのでせうか。これを考へると、神の単独行使だとは、私には思へないのです。
私も必ず関与する。どう関与するかと言ふと、悪霊を神が送るとき、「今から送つてもいゝか」といふ許可を、神は私に求める。そして私がそれを許可すれば、神は初めて私に悪霊を送る。もしも私が拒否すれば、いくら神と言へども、悪霊を送ることはできない。
どうしてそんなふうに考へるか。
神は私に、自己完成といふ責任分担を与へたのです。だからそれについては、私が主人である。たとい神と言へども、その主人に無断で摂理を行ふことはできない。
「いや、そんなことを言つたつて、私にはそんな悪霊OKの許可を出した覚えなどない」
と言はれさうです。
確かに、明示的に神が私に頼み、私がそれに応じたといふ痕跡はない。私にはそんな自覚はない。しかし、私の人生の課題の中で、私は深い無意識において、許可を出してゐる。許可を出したからには、それを受け止め、処理するのは、私の責任です。
私の知り合ひに、苦労のデパートのやうな人がゐます。生まれ育つた家で苦労し、嫁いだ先で夫に苦労し、姑に苦労し、子どもに苦労してきた。その苦労話を聞けば、同情せざるを得ない。
しかしさういふ人であつても、本当はその苦労を自ら許可してゐる。だから神は、難しい親を与へ、難しい嫁ぎ先を与へる。その人の許可なしに、神が勝手にしたことではないのです。
実は、神があらかじめ許可を求めたといふ話を、私が神に確認したわけではない。事実かどうか、本当のところは分からない。私としては、そのやうに考へたほうが、私にとつていゝのではないか。さう思ふだけです。
何がいゝか。
私が許可をしたのなら、私が主人です。神が勝手にしたものではない。神にも文句が言へないし、悪霊にも、私を苦しめる人にも、文句が言へないでせう。
どのタイミングで悪霊を送るか、どんな悪霊を送るかについては、神がその叡智によつて判断されるでせう。それは神に任せる。しかし、来たものを受け止める責任は私が持ちます。
さうすると、どんな苦痛が来たとしても、
「甘受する」
といふ選択しか、究極的にはないことになりはしないでせうか。

にほんブログ
- 関連記事
-
-
二世とワーク「私は誰?」 2014/12/16
-
「外にあるもの」などない 2021/05/31
-
なるやうに、なる 2022/09/24
-
「困つた」問題をいかに解決するか 2020/10/17
-
スポンサーサイト