概念で生きない
私自身、日々の生活の中で、「何か失敗したな」と感じるとき、あるいは誰かとの関係がこじれたりするやうなときがある。さういふときは、「概念」の力が「良心」の力よりも強く、「概念」優先で動いたときだなと思ふのです。
この厄介な「概念」といふもの。これについて、少し考へてみます。
大きめの概念から考へてみますと、例へば、
「国があり、民族がある」
といふ、かなり強い概念があります。
国境線とか、特定の民族グループとか、さういふものは元々、この地球上のどこにもありはしない。地図といふ人工的なものの上に概念に過ぎない国境線を描いて、これがあたかも絶対的に存在するかのやうに見せてゐる。我々はこの概念を、今ではほぼ疑ひもなしに受け入れてゐます。
こゝから
「人は自分の生まれた国を、まづ愛するべきだ」
といふやうな信念が生まれ、さういふ人を愛国者と呼んで讃える。
しかし中には、自分の国よりも他国のほうをより愛する人もゐて、さういふ人は、日本なら「反日」などと呼ばれ、愛国者との間に激しい対立と論争が起こつたりするのです。
この概念は、我々人間に特有のものです。その証拠に、人間以外の生き物に国境線はない。渡り鳥たちは自由に、ロシアの領地と日本の領地を季節ごとに往来してゐます。
あるいは、
「お金がある」
といふのも、極めて強い概念です。
この概念のお蔭で、我々は、
「お金がないと生きていけない。お金があるほうが幸福である」
といふ思ひ込みに囚はれてしまふ。
宗教の世界にも、実に多くの概念があります。概念の密度では、宗教が一番かもしれない。
「神がゐる」
といふのは、まだいゝかもしれない。
しかし、
「神は正義の神である。悪は許されない」
といふ概念が生まれると、そこから「正統」と「異端」の闘ひが生まれ、魔女狩りが行はれ、他宗との間に宗教戦争が勃発することになります。
「救ひ主を信じなければ、天国に行けない」
とも言ひ、
「洗礼を受けないと、煉獄に行く」
などとも説教されるやうになる。
それで、
「免罪符を買へば、死後は無条件に天国に行く」
といふやうな教説がまことしやかに唱へられ、それがまた信者によつて信じられるやうになるのです。
かうなると、宗教とは概念から成り立つてゐると言つても、まんざら大袈裟ではない気がしてきます。
もう少し身近なところにある概念を見てみませう。
例へば、家族同士で、
「夫(妻)とはかういふものである」
といふやうな概念で、相手を見てしまふ。
あるいは、
「かうすれば、相手は喜んでくれるはずだ」
と、自分の頭の中で相手を勝手に動かしてしまふ。
それで結果が自分の概念通りでないと、
「相手がおかしい」
と思ふ。
お互ひに、生身の人をありのまゝに見ないで、概念で見てしまふのです。自分の価値基準で相手を見て評価してしまふと言つてもいゝ。それでゐて、その姿を「ありのまゝの姿」だと思ひ込んでゐるのです。
誰かを愛するとしても、概念の人は、その概念で見える相手を愛さうとする。相手のありのまゝの事情を見ないから、自分なりで、傍からは冷たくさヘ見えたりする。
これと反対に、良心は物事をありのまゝに見ようとし、そのありのまゝを愛さうとします。
例へば、知人の一人が困りごとを抱へたとします。
概念は、
「彼があゝいふふうにしたから、仕方ない。彼の責任だ」
などと、理屈や論理を優先する。
しかし良心はありのまゝに見るから、
「困りごとがあるなら、助けよう」
と、感じたことと思ひの間に理屈が入らないのです。
世の中の様々なトラブルの様子を見てゐても、概念による理屈や論理が入り過ぎて、良心の働く余地がとても少ない、さういふところに問題の難しさがあるやうに思へてなりません。

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