サタンと戦はない
サタンについて考へるのは、誰にとつてもあまり気が進むことではないでせう。そこで、考へなくてもいゝ、あるいはむしろ考へないほうがいゝ、といふことについて考へてみようと思ひます。
サタンは実在するのか、と言へば、実在するとは思ふ。長い間、私はづつとさう信じてきました。
聖書の冒頭、エデンの園の物語で登場して以降、ヨブの物語にも姿を現すし、イエスが40日間の断食を終へた直後にも、試みるために現れる。『原理講論』では、共産主義をサタンの思想と言ふし、先の世界大戦はサタンの最後の発悪だともみなしてゐます。
サタンとは元々ヘブライ語で、「敵対する者」といふ意味ださうです。神に敵対する者として、神の人類救済の摂理をことごとく破壊しようと画策し続けてきた存在。それがサタンだといふのです。
聖書歴史で6千年、常に神に敵対してきたとは、よほど執念深い。どうしてそんなに心変はりもせず、ことごとく敵対し続けることができたのか。それがむしろ不思議なほどです。
神の摂理を妨害するために、我々、特に神を信じる者を、さまざまな方法で誘惑する。人間から見えないのをいゝことに、あらゆる罠を駆使して、神の道から脱落させようと全力を尽くす。
それがサタンであるなら、人間はつねに人知を超えた霊的な力で誘惑を受ける弱い立場、強いて言へば、被害者といふことになる。
何か過ちを犯した、失敗したといふとき、
「私はサタンの誘惑にかかつた。それに負けた」
といふ弁明が成り立ちます。
誘惑する者が悪いのであつて、私自身は悪くない。私自身は頑張らうと思つたが、力が足りなかつただけだ。さういふ論理が許容されるでせう。
それが問題であるのは、誰か他の人に対して弁明できるといふことだけではない。むしろもつと厄介な問題は、その弁明によつて自分自身を見なくなるといふことです。
これは私自身、痛切に感じる。自分自身を見るとしても、「私はサタンの誘惑に弱い」といふところしか見ない。もつとその奥に潜む、より根深い問題、それを等閑視するのです。
この問題の基本構造は何か。それは、我々がこの世の仕組みを「もの」として見るといふところにあると思ふ。私自身も「もの」であり、サタンもまた「もの」(霊的ではあるが)であるといふ見方に慣れ過ぎてゐるのです。
だから「サタンが働く」と言へば、「もの」としてのサタンが「もの」としての私に外部から働くとしか思へない。「もの」と「もの」とがぶつかれば、戦つて、勝つとか負けるといふ話になるのです。
どうしたらいゝか。前回の記事「世界は『変化』である」で書いたやうに、現象を「もの」として見ずに、「出来事」として見るやうに、見方を転換したらいゝと思ふ。
サタンの働きを「出来事」として見れば、どうなるでせうか。
サタンの働きとは、サタン的な「出来事」です。その出来事を誘発した真の原因は、今現にその出来事を体験してゐる私自身にしかない。さうであれば、私自身を変へることで、その出来事も変へることができる可能性がある。
この世を「もの」の集まりと見れば、問題の原因の大半は私以外の「もの」にありさうに思へる。しかしこの世を「出来事」だと見れば、問題の真の原因はつねに私自身の中にしかないのです。なぜなら、「出来事」はまさに、私自身のみが経験しつゝあるものだからです。
サタンにしてみれば、我々がこの世を「もの」として見てくれたほうが都合がよいでせう。「『もの』としてのサタンが存在し、それがつねに神に敵対し、人間を誘惑してゐる」といふ観念が我々の中にある限り、サタンは人間への圧倒的な影響力を維持できるからです。
だからサタンといふ存在そのものは敢へて否定しなくてもいゝが、それが「もの」として我々に働きかけるといふ「観念」は、我々の頭の中から消したほうがいゝのではないか。さう思ひます。

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