世界とは「変化」である
イタリアの理論物理学者、カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』は、ありがたいことに、数式がほぼ出てこない。お蔭で私にも何とか歯が立つが、それでもややこしいところは随時出てきて、さういふところは適当に流し読む。
内容は、非常にそゝられる。ミリオンセラーだけのことはある。中でも特に面白いのは、かういふ部分です。
事物は「存在しない」。それは「起きる」。世界とは「変化」である。この世界は「もの」ではなく、「出来事」の集まり。「もの」は時間をどこまでも貫く。「出来事」は継続時間に限りがある。 |
まるで、仏教書を読んでゐるやうではないですか。仏教の説く「諸行無常」そのものでせう。あるいは「色即是空」にも通じます。
この世は「もの」ではなく「出来事」でできてゐる。その例をいくつか説明してゐます。
「山にかかる雲」は「もの」ではなく、風に乗つて山を飛び越す空気中の湿気の凝縮。 「家族」は関係や出来事や感情の集まり。 「人間」は食べ物や情報、光、言葉などが入つては出ていく複雑な過程。社会的な関係のネットワークの一つの結び目。 |
その意味を理解できないことはない。しかし、何か非常に抵抗感が強いのも事実です。
どうしてでせうか。我々はこれまでづつと長い長い間、この世は「もの」の集まりだと思ひ込んできたからです。
実際、私の体はどう触つてみても、「もの」以外ではないやうに思へる。水道の蛇口から出る冷水で手を洗ふと、指が凍へてくるのに、温かい湯船につかると、眠くなるほど気持ちいゝ。同じ水でも、温度によつてそんなにも感触が大きく違つてゐます。
このまざまざと感触のある肉体も水も「もの」ではなく、本当に「出来事」なのだらうか。頭では理解できるやうでも、感覚が納得しない。
考へてみると、これまで仏教の「諸行無常」や「色即是空」を聞いても、これと同じだつた。頭と感覚とが乖離して、二つがせめぎ合ふと、どうしても感覚が勝つてしまふのです。
ところが今や、物理学の先端は仏教に追いついてきた。仏教なら信じる、信じないの選択が許されたとしても、物理学が突き詰めてきたとなると、これはなかなかのっぴきならない事態です。
この宇宙も「もの」ではなく、「出来事」。ならば、宇宙が誕生して百数十億年などといふ計算も、大した意味などないやうに思はれてきます。ついさつき出来上がつたと考へたつて、何か支障があるでせうか。
私自身も「もの」ではなく、「出来事」。「出来事」ならば、「俺が、俺が」と己に固執する意味もなくない? と思へてきます。
21世紀の物理学は、大変なことになつてゐますね。物理学と宗教とスピリチュアルがごちや混ぜになり、これまでの我々の既成概念はガンガン崩されていくやうな気がします。もう少し長生きして、この時代の変化を味はひたい。

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