神に祈らない
「書きたいこと」の第1弾です。
神に祈らなくていゝ、むしろ祈らないほうがいゝ、といふことを考へてみます。
時代はすでに、祈る時代から報告する時代に移行してゐます。「祈る」と「報告する」とは、どう違ふのでせうか。
祈り方の一般的ガイドラインは、
① より広く、次元の高いこと(世界のこと、国家のことなど)から祈り始め、
② 次第に範囲を狭めて(氏族や家庭)、最後に自分のことを祈る
といふものです。
①はとても良いことのやうに思へますが、往々にして観念的で、上の空になりやすい。どうしても実感が伴はないのです。
一方、②は自分のことなので、実感がある。切実でもある。そして「かうしてほしい」「かうなりたい」といふやうな祈りになりやすい。
それで祈りの主要イメージは、この「願ふ祈り」です。これはとても良くないと思ふ。
なぜなら、「願ふ」といふことには、
「今の自分にはその願ふ内容が備はつてゐない」
といふ意識が隠れてゐるからです。
その意識は潜在意識の中にあつて、自分でもあまり自覚できない。
表層意識では、
「自分は向上したい。もつと素晴らしくなりたい」
と思つて祈つてゐます。
しかし潜在意識では、
「自分はまだ不足で未熟だ。能力が足りない」
と自認してゐるのです。
すると、祈れば祈るほど、落ち込んでしまふ。あれほど祈つたのに、どうしてさうなるのか。
今すでに神からもらつてゐるものへの感謝がない。それで、まだもらつてゐないものへ意識が集中し、「それをください」といふ「願ふ祈り」になるのです。
ところが、現状への感謝がないまゝ願へば願ふほど、「今持つてゐない」と認めてゐる潜在意識の信念のほうが実現してしまふのです。
だから、祈らずに、報告する。そのほうがいゝと思ふ。
報告は客観的な現状の表明です。できないことはできないなりに、できたことはできたなりに、正直にそのまゝ報告する。それなら、私の中の表層意識と潜在意識との乖離が小さくなるでせう。
また、祈りの中で
「神の栄光と尊厳と賛美が捧げられますやうに」
と言ふことが、よくあります。
しかし、神はそんなものを欲しておられるだらうか。甚だ疑問です。
私が神なら、そんなものはあまり嬉しくない。栄光や尊厳など、神には大した価値がない。賛美なども捧げてくれなくていゝ。
本当に欲しいのは「神の願ふまゝの実体」ではないか。それを手に入れたいために創造を始めたのでせう。「神の栄光」といふなら、さういふ実体が出現すること自体が「神の栄光」に違ひない。
私自身が「神の栄光」になるには、祈りはむしろ阻害要因になり得る。祈りは、今自分が祈つてゐる言葉が本当の自分の気持ちだと錯覚させる恐れがあるからです。
必要なのは、潜在意識に何が潜んでゐるかを探り、それを表層意識にはつきりと見せることです。そのためには、祈りよりも、正直な報告のほうがはるかに有益だと思ふ。

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