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過去に戻つて後悔しない

kitasendo
時間は存在しない

後悔といふものがあります。聖書を見ると、あの偉大な創造主にさヘ、後悔があるらしいことが分かる。

主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
「私が創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。私は、これらを造ったことを悔いる
と言われた。(創世記6:6-7)

神でさへ悔いることがあるのなら、まして不完全な我々に悔いがあつても一向におかしくはない。ただし、悔い方にも二通りあります。

一つは、それをやつてしまつた過去の時点に戻つて、そのときの出来事と一緒にゐるといふ悔い方。もう一つは、過去の出来事から生じる後悔といふストレスと一緒にゐるといふ悔い方です。

この二つは似てゐるやうで、実は大きな違ひがある。前者は私が過去におり後者は今にゐるのです。どうせ同じ後悔をするのなら、今にゐるほうがいゝのではないかと、私は思ふ。

「後悔先に立たず」といふくらゐだから、後悔は必ず過去に起因すると思つてゐます。ところがその「過去」といふものは、本当に存在するのか。こゝが問題です。

はるか昔、ギリシャの哲学者アリストテレスは「時間は実在しない」と考へてゐたやうです。時間は運動や変化を表す尺度に過ぎず、過去や現在、未来などといふものはないと言ふ。

ところが、18世紀にニュートンが「絶対時間はある」と主張して以来、長らく「時間はある」といふ観念が我々の頭に定着した。我々人間がゐるゐないに関係なく、時間といふものは一定の速度で過去から未来に向けて流れ続ける。さう考へると、我々の心は何だか落ち着きます。

ところが20世紀に入つてアインシュタインが「場所や速度によつて時間は伸びたり縮んだりする」と言ひ出した。そして今や量子力学的な実験によつて、「現在が過去を変へられる」といふ事実さへ立証するに至つてゐるのです。

かうなつてくると、過去・現在・未来の前後関係も可変的に見える。そしてそもそも「時間なんて本当にあるの?」といふ疑問もジョークではなくなる。

私自身はアリストテレスが言ふやうに、あるいは物理学者カルロ・ロベッティが『時間は存在しない』で説くやうに、時間は一つの概念だといふ考へです。ふだんの日常生活では「時間がある」と考へたほうが便利でいゝが、本質的には「ない」と思ふ。

とすれば、何かをやらかしてしまつた過去の時点に戻り、その出来事と一緒にゐて悔いるといふのは、あまり賢明な態度ではないでせう。それよりは、後悔といふストレスと一緒に「今」にゐるといふ選択のほうがよほどましだと思ふ。

過去に戻つたとしても、そのときの自分を責めるだけで、いたずらに苦しいばかりです。しかも、それを何度繰り返したところで、その苦しさは一向に収まることがない。

これはどうしてかといふと、過去の出来事は一つの確定した事実として、私と対立してゐる。何とか否定したいのですが、否定しきれない。私は自分が否定しようとするもの(あるいは「こと」)によつて否定し返され、傷つくのです。

二つ目の悔い方は、後悔といふストレスと今一緒にゐて、仲良くすることを目指す。

「私は今、『過去にあんなことをしてしまつた』といふストレスと一緒にゐる」
と思ひながら、「今」をぢつくり味はふのです。

つまり、ストレスを否定せず、受け入れる。受け入れると、それは私の中に入つて、私と一体となる。さうなれば、私を否定し返すこともなく、さほど間をおかずして、不思議なことにストレスは静かになり、収まつていくのです。

肝心なのは、今にゐて、過去を否定しないこと。否定しないで受け入れれば、私の一部になるので、私を傷つけるものではなくなるのです。

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Admin:kitasendo