「戒律」といふ概念
社会学者で東大名誉教授の上野千鶴子さんが、ある男性と密かに入籍してゐたと『週刊文春』が報じて、少し話題になつてゐるやうです。
『文春』は「密かに入籍」と書くけれども、入籍するに当たつていちいち「私入籍しました!」といふステートメントを世間一般に発表する必要はないでせう。役所に行つて粛々と(密かに)手続きすればそれでいゝことです。
入籍が特に話題になるのは有名人に限つたことに違ひない。上野さんも有名ではあるのでニュースバリューが生まれるが、彼女の場合は有名である上にさらに追加条件がある。
日本フェミニズムの旗手とも言ふべき人で、常々
「私は結婚制度が嫌」
と主張し続けてきた。
その思想を表した「おひとりさま」シリーズは100万部を超えるベストセラーにもなつてゐます。「その女性が入籍とは何事だ!」といふ反応が多いやうです。「裏切りだ。誠実さも一貫性もない」といふわけです。
さういふ批判意見が多い中、私が見た限りでは、脳科学者の茂木健一郎さんだけが
「喜ばしいことだと思ふ。入籍に何の問題があるの?」
といふ(擁護的な)意見を述べてゐます。
茂木さんの論点は2つある。
一つは、人はそもそもイデオロギーで生きてゐるわけではない。人生の整合性を厳格に求められるべきものでもないし、またそんなふうに生きられる人などゐるのだらうか。
もう一つは、上野さんの思想に影響を受けて自分の生き方を変へた人などゐないのではないか。どんなに奇抜で優雅な思想であつても、その影響は私の人生の1000分の1にもならないと思ふ。
2つの論点ともに至極妥当だと、私には思へます。
かういふ出来事を見るたび、私は決まつて一つの有名な逸話を思ひ出す。聖書にある「罪の女の物語」です。
あるとき、イエスの布教に反感を抱くユダヤ教指導者たちが、姦淫の現場を押さえられた女をイエスの前に引きずり出す。 そして、 「姦淫の罪は石打ちの刑に処せとモーセの戒律にありますが、先生はどう考へますか」 とイエスに問ふ。 イエスは長く沈黙を守つてゐたが、最後に口を開き、 「あなたがたの中で、自分に罪がないと自負する者がこの女を処刑するがいゝ」 と答へるのです。 |
この逸話は、我々が他者を批判するときの一つの「原型」だと思ふ。そしてイエスの返答は、批判者に向けてなし得る最良の答へだと言つていゝ。
逸話の中の宗教指導者たちは、罪の女の行動から自分の人生に1000分の1も影響(あるいは被害)を受けてはゐない。それなのになぜ、かくまで女の罪をあげつらふのか。彼らには「モーセの戒律」といふ強力な後ろ盾があるのです。
「我らはモーセの戒律の代表的守護者である。ゆゑに我らにはこれを守る義務がある。その義務により、この女を非難し、罰せねばならない」
これが彼らの論理でせう(たとい建前だとしても)。しかしこの論理は果たして正しいのか。これは熟慮する必要があります。
上野さんを批判する人たちは(おそらく)、上野さんの思想の信奉者ではない。どちらかと言ふと苦々しく思つており、その思想から1000分の1も影響など受けてゐない。それなのになぜ、かくまで上野さんを不実だとあげつらふのか。彼らにも彼らなりの「モーセの戒律」があるのでせう。
曰く、
「人は言行一致であるべきだ」
「人は自分の思想を変節させるべきではない」
「人は嘘をついてまで金儲けをするべきではない」
といふやうな「倫理」と呼ばれる戒律があるのです。
自分たちはこの戒律の守護者なので、正しい人間であり、これに違反する人を見つけたら、即座に批判を加へ、懲罰しなくてはならない。さう自負してゐるのです。
これはかなり正しい自負のやうに見えます。しかも今日、イエスのやうに鋭い錐の一言を突き刺す人はゐない。真つ向から反論されることがない。
しかし「モーセの戒律」がこのやうなかたちで利用されるとき、それは泣いてゐるやうに私には感じられる。この「戒律」はもはや一つの概念にすぎなくなつてゐるのです。
「すべきだ」「すべきではない」といふのは、元は天来の貴いものかもしれない。しかし、我々はそれを単なる概念に貶めてしまひ、自分の恣意によつて利用しがちなのです。
自分の中に一つの概念があり、人はその概念に合はせて生きるべきだと考へる。概念が先にあり、生身の人間はその枠の中に入るべきだといふのです。
しかもその概念は、単に自分一個の個人的な概念ではないと思つてゐる。世間大半の同意を得られる普遍的な概念だと信じてゐて、だからこそ批判することに躊躇がないのです。
しかし生身の人間とは、そんな概念にきれいに収まるものでせうか。姦淫の女にしたつて、モーセの戒律を知らなかつたわけではあるまい。知りながらも、如何ともしがたい力に引かれてあゝいふ事態になつた。
指導者たちはその事態を概念によつて判断した。それに対してイエスは、さういふ事態に陥らざるを得なかつた女の事情を現実に沿つて考へ、何とか人生を好転させる術はないかと配慮したと思はれます。
茂木さんの意見は、イエスの返答とはだいぶ趣きが違ふ。しかし「戒律といふ概念」からかなり自由になつてゐるといふ点で、私には好ましく感じられるのかもしれない。
聖書の逸話には、イエスの返答の続きがあります。彼の返答を聞いた指導者たちは、年かさの者から順番に一人また一人と、その場を立ち去つて行つたといふのです。
これはイエスの一言が彼らの良心に鋭く突き刺さつたからかと言へば、私にはさうは思へない。彼らは自分が長年固執してきた概念を、さう容易に捨てるはずがない。
「我らが正しいと信じる概念では、今すぐにはイエスを追ひ込みがたい。取り敢へず今は引いておかう」
といふくらゐの判断だつたらうと推察するのです。
それほどに概念といふものは強力で、容易なことでは我々を解放してくれない。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
向かうは雑なんですね 2021/12/20
-
「べっぴんさん」のひとコマ 2016/12/25
-
鬼をもてなす 2015/04/11
-
「相談できる人」を育てる 2017/01/07
-
スポンサーサイト