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加害者は誰が作るか

kitasendo
悪い奴

今まで自分の知らなかつた良いものがあると誰かが紹介してくれ、
「それがあれば、生活がもつと快適になりさうだ」
と思ひ、手に入れてみて使つてみると、あまり良くはなく、却つて思はぬ副作用が出たとします。

さういふ事態になつたとすれば、私の心は穏やかではおれませんね。どんな思ひが湧いてくるでせうか。

「これを使つて、私の生活は却つて不便になつた」
「これが本当に良いと思つて紹介してくれたんだらうか」
「生産者はもつとよく考へて作るべきなのに…」

さういふいろいろな思ひが湧いてくるかもしれない。かと言つて、良かれと思つて紹介してくれた知人を責めるわけにもいかず、生産者や販売者を訴へるほどのことでもない。それで鬱々たる思ひが胸の内に行き場なくわだかまる。

これに類した体験は誰にも一度や二度はあるでせう。私にもあります。そのときの自分の内心を振り返つてみると、自分がその葛藤をどのやうに処理しようとしてゐるかについて、気づいたことがある。

ふつうは何気なく、かう思ふでせう。

誰かがさして良くないものを作り、それを無責任に勧める人がゐて、それを信じた私が損害を被り、「損をした!」と憤慨する。つまり誰かが加害者となるとき私がその被害者になり、その結果、私の中に葛藤が生じると思ふわけです。そして被害者の私は加害者を非難せずにはおれない気持ちになる。

ところがよくよく考へてみると、話の筋は逆ではないかと思はれてくるのです。

加害者がゐるから私に被害が及んで葛藤が生まれると思つてゐる。しかしこれはとんだ勘違ひで、本当は、私の中に葛藤が生まれるとき、その葛藤を収めるために加害者を探し出して特定しようとするのではないか。そのとき、自分は被害者であるから悪いはずはなく、悪い加害者は必ず私以外の誰かなのです。

つまり、
〔悪の加害者 → 私の葛藤〕
ではなく、
〔私の葛藤 → 悪の加害者〕
が本当ではないかと思はれるのです。

しかしこの見方は、俄かに賛同を得難いかもしれない。

「この世には確かに悪い奴がゐるのだ。私がそれに葛藤し、何とかしたいと思ふのは不当なことではない」
と反論されさうです。

その反論が間違つてゐるとも、私には言ひ切れない。ただ、上のやうな逆転の見方をすると、自分次第で思ひがけないことが起こり得ます。

私の中に葛藤が生じないか、あるいは生じてもそれを自分の中で解決できるなら、どうなるか。悪の加害者はどこにも出現しないといふことになるのです。

冒頭の例で言へば、元々加害者などゐない。紹介してくれた知人に悪気はないし、生産者だつて私を困らせようとしたわけではない。私の中の葛藤が人為的に加害者を作り出しただけなのです。

加害者を想定し、彼を非難して責任を負はせないと、自分の葛藤は収まらない。少なくともさう思ひ込んでゐる。どうもさういふ悪癖が我々にはあるやうに思へます。

葛藤はどうしても起こる。しかも癖とは元来無意識的なものなので、矯正はなかなか容易ではない。まづはそのことに意識的になる必要があります。

私の葛藤が加害者を生み出してゐる。それゆゑ、私が自分の葛藤を一つ減らせば、この世から加害者が一人消える。それがこの世の仕組みのやうに思へます。

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Admin:kitasendo