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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「私の中の世界」を創造する

2023/02/19
原理を学ぶ 0
原理講論
道徳律

18世紀の哲学者イマヌエル・カントに
「我が上なる星空と、我が内なる道徳律」
といふ有名な言葉があります。

頭上に展開する星空と、自分の内心に働く道徳律。この2つのものは、新しい感嘆と畏敬の念をもつて私の心を満たし続けると『純粋理性批判』の最終章で書いてゐるのです。

聖書的な世界観から見れば、この2つともに創造主・神に由来してゐると考へられるでせう。しかし由来は同じだとしても、両者には大いに違ひがある。

「我が上なる星空」は私が生まれる以前から存在しており、私はその世界の中のごく小さな存在に過ぎない。これを「世界の中の私」と表現できます。前の記事に即して言へば「第1の宇宙の中の私」です。

一方、「内なる道徳律」は謂はば「私の中の世界」(前の記事で書いた「第2の宇宙」。「私の意識世界」と呼んでもいゝ)でのありさまであり、そこでは私は決して小さな存在ではない。といふより、私こそがその世界の主人なのです。

原理講論』が説く「人間が神から受け継ぐべき創造性」を考へるとき、それはこの「私の中の世界」を創造する能力のことではないか。さう私には思へるのです。

「我が上なる星空」を創造したのは第1の創造主であつて、これはもう我々が変へることはできない。できるのはせいぜい、その中にあるものを資源として使つたり、加工して新しいものを作り、我々の生活の利便性に供することくらゐです。

しかし「私の中の世界」は第1の世界とはまつたく違つて、私が創造しなければならない。そこに私の責任分担があります。

この世界にはこの世界だけの神がゐます。それが私の良心です。しかしこの世界はその良心が創造するのではない。創造主はあくまでも私です。

この世界を私はどのやうに創造するのか。

第1の世界のものを私の五感を通して情報として取り込みます。それは電気信号として脳に送られ、そこで意識が扱へる形に変へられる。それを意識が認識して再構成していくのです。

それゆゑ、我々が通常認識してゐる「この世界」は世界それ自体ではなく、情報として加工されたものです。このことはカントもさう考へてゐます。

少し具体的に考へてみませう。

職場の部下が私の指示通りに動かず、独自の行動をしたとします。そのとき私はその部下をどう思ふか。

「こいつは上司の指示を無視する奴だ」
「自分勝手な行動をする奴だ」

そんなふうに思つて、気分が悪くなり、部下への評価は最低になるかもしれない。しかしその部下は、私の指示を正確に理解してゐなかつた可能性もある。あるいは指示よりももつと良い方法があると判断して行動したのかもしれない。

いづれにせよ第1の世界では、彼の行動は「そのやうに行なつた」といふ事実しかないのです。その行動をどう評価するかは「私の中の世界」で私が行なつてゐるに過ぎない。

ところが私は「私の中の世界」で評価認識してゐる出来事が第1の世界で起こつてゐる出来事そのものだと、往々にして勘違ひしてしまふ。それで「この部下を私は嫌ひだ」といふことになるのです。

しかしこのやうなとき、「私の中の世界」の神である良心が十全に働いてくれてゐれば、私に最適なアドバイスを与へてくれるはずなのです。

あなたは自分の指示が絶対に正しく、部下の行動は間違つてゐると思ひ込んでゐるが、本当にさうか。彼には彼なりの正しさがあるはずだ。あなたが自分の正しさだけに固執するなら、『あなたの中の世界』は、神が創造した第1の世界にある真善美をそのまゝ反映することができないのではないか。

私は私の良心との間でかういふやり取りを絶え間なく繰り返しながら、「私の中の世界」を美しく、善く創造していくのです。ある意味で「私の中の世界」には、元々第2の神(良心)と私以外存在しない。それ以外の人もものも、私が良心との共同作業で創造していくのです。

そのやうに創造すれば、「私の中の世界」には私に敵対する者がなく、私が嫌ふ者がなく、私が受け入れられないものも存在し得ない。するとまづ「私の中の世界」では私は神の創造性を行使できたと言へないでせうか。さういふ世界を創ることこそが私の責任分担ではないかと思ふのです。

「私の中の世界」がそのやうになれば、その土台の上で、第1の世界に実在する人や万物に対して神のやうな立場で接する道が自ずと開けるでせう。

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