我々の真の創造性
神が人間に責任分担を与へたのは、それを完遂することで神の創造性までも似るやうにするためであつた。さらには、神との共同創造主といふ権限によつて、万物の主管主といふ立場も与へようとなさつた。
人間の創造性について、『原理講論』ではそのやうに説明されてゐます。しかしその創造性とは一体どんなものか、その内容については具体的に触れられてゐない。
そこで『統一思想要綱』を参考にすると、
「創造性とは創造の能力のことである。新しいアイデアを生み出し、新しいものを造り、生活を豊かにするなど、これが創造性の働きである」
といふふうに説明されてゐます。
しかし創造性がさういふものであるなら、責任分担を果たせず堕落したといふ今日の人間でも発揮できてゐるやうに見える。これはどう理解したらいゝのか。
そこで『要綱』は「神の心情」といふものを持ち出します。そして、人間は堕落したために神の心情を体恤できず、その結果、神の創造性を不完全な形でしか受け継ぐことができなかつた。だから今日まで、人間の創造活動はほとんど神の愛とは関係がなかつたと言ふのです。
確かに、こゝ数百年間の科学の発展を見ても、新しいものが出てくるたびにむしろ環境は汚染され、人も自然もその被害を受けてきたといふ事例は枚挙にいとまがない。とすると、やはり神の愛と無縁な創造性しかなく、それではダメだと言ふことになりさうです。
今の人間にも創造性はある。しかしそれは神の愛と無縁なので、不完全なものである。だから我々は何としても責任分担を果たして、本来の創造性を取り戻さなくてはならない。さういふ結論になります。
ところで、こゝで理解してゐる創造性とは、無形であれ有形であれ、何か新しいものを生み出し、生活の利便性を高めるものです。神が人間に与へようとした創造性とは本当にさういふものだけだらうか。そこに私の疑問があります。
まだ十分にしつかりした立論はできないものゝ、この点を考へてみようと思ひます。
神はその偉大な創造性によつて、この膨大な宇宙を造り出した(のは間違ひないとして)。さういふ神が我々人間に譲らうとした創造性は、単に何か生活の利便性を高める工夫のやうなものではないのではないか。
端的に言へば、神が人間に願つたのは、
「神が宇宙を創造したやうに、第2の宇宙を創造できる創造性」
といふべきものではないかと思ふのです。
本来我々は誰でも、自分の宇宙を創造できる。その宇宙は人それぞれでみな違ひ、独特のものではあるけれど、基本の性質は第1の宇宙に似てゐる。つまり、本来は一貫して美しい法則に貫かれており、善と愛に満ちてゐるはずのものなのです。
これについては、イエス様がかういふふうに表現してゐます。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 (マタイ福音書6:20) |
こゝで言ふ「天」が、私の造るべき第2の宇宙です。私は肉体を持つてこの世に生きてゐる間にこの宇宙を造り完成させて、それを持つて人生の第3段階であるあの世(霊界)に移行する。そのためにこそ、神は我々に自分の宇宙を創造できる能力を与へようとなさつたのではないか。さう考へるのです。
しかしそれなら、我々に第2の宇宙など本当に創造できるのか。その宇宙とは一体どんなものなのか。それについて考へてみませう。

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