無極から出て無極へ還る
易学では、宇宙の根源は太極または無極だと言ふ。そしてその太極から陰陽が生じ、陰陽から木火土金水の五行が、五行から万物が生成されたと説きます。
太極と無極の関係については、学者の間でも議論の余地があるやうなので、こゝでは無極とします。
『原理講論』ではこの無極こそが創造主としての神だと言ひ、その神は陰陽二性性相の統一的(中和的)核心であると言ひます。このことから、神にも陽と陰の二極があるとも考へるのですが、重要なのはそのもつと元は無極だといふことだと思ふ。
無極を字義的に理解すれば、極が無いといふことです。その極の無い根源から極が生じ、被造世界はすべからく陽と陰との二極の関係で存在する有極の世界となつた。我々は生まれたときからこの二極の世界に生きてゐるので、二極が当たり前と思つてゐます。
棒の磁石は一方の端がN極なら、反対の端は必ずS極になる。それを真ん中で切断してもなほ、半分になつた磁石はN極とS極に分かれる。決して無極にはならないのです。
我々人間だつて、生まれながらに男であるか女であるかのどちからで、思ひのまゝに入れ替はることはできない。男でも女でもないといふ存在にはなることができず、「女はどんなふうだらう?」と男がいくら考へても、遂に分かり切ることはできないでせう。
さうは言つても、陰陽の二極は原理的にあつてしかるべきもので、豊かな結果をもたらすでせう。しかし、我々の世界には厄介な二極もあるのです。
例へば、正と偽とがあり、善と悪とがある。左翼と右翼があり、唯心論と唯物論がある。これらは概念による二極であり、一方を取ればもう一方は捨てるしかないといふ二極です。
しかし根本の無極には陽と陰がないばかりか、正と偽もなく、善と悪もないのです。対立するものが一切ない。それが無極の無極たる所以です。
対立するものが一切ない無極の世界。それが我々においても一つの理想的な世界ではないでせうか。
善悪を超えて対立をなくさうとするなら、私は無極になるしかない。二極の世界にとどまる限り、私は自分と合はないと感じる相手を必ず批判し優劣を競ふしかないのです。
「悟り」とは「差を取ること」である。さういふ解釈を聞いたことがあります。なかなか含蓄のある解釈だと思ふ。
確かに、見てきた通り、二極の世界は「差(違ひ)」を作り出さずにはおれない世界です。
- 私の意見とあなたの意見とは、こゝがかういふふうに違ふ。
- あなたよりは私のほうがこれくらゐ正しい。
- 女より男が(あるいは男より女が)優れてゐる。
- 高卒より大卒のほうが優秀で、あの大学よりこの大学のほうがランクが上だ。
さういふふうにあらゆるところに正しさの差を作り、能力の差を作る。そして絶え間ない競争と対立を作り出してゐる。
さういふ差を取り除き、極をなくす。そこには私とあなたの別がない。正と偽の区別もない。善と悪の区別もない。その境地に入ることを「悟り」といふわけです。
結局は、無極から出た我々が、一旦二極に分かれたとしても、遂には元の無極に還る。無極は何も無いところではなく、むしろすべてがあるところです。すべてがあるがまゝにある。

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