水が氷になる世界
神秘思想家として知られるルドルフ・シュタイナーは『神秘学概論』の中で、この世の起源について、かういふ譬へで説明してゐます。
この世(物質的宇宙)の素材のすべては霊的なものから生じた。この世が生じる前は、霊的なものだけが存在してゐた。現在の仮説で言へば、ビッグバンで今の宇宙が生じる前には霊的な宇宙があつたと言へるでせうか。
それは水と氷に譬へることができます。
最初は水だけが存在してゐた。それがあるとき冷却(シュタイナーは濃縮と表現してゐますが)されて氷が現れる。それがこの世である。
今我々は通常その氷を見てゐる。ところが超感覚を備へたごく稀な人は直接もとの水を見ることができる。そして見たそのありさまを言葉で記述する。
超感覚の開かれてゐないふつうの我々は、水を見ることができないか。それは不可能ではない。超感覚者が記述した言葉を通して、水の認識に至ることができるのです。
ただし、そのために必須なことがある。「純粋に論理的な思考」がそれです。
まづ、超感覚者が記述する言葉が純粋に論理的な思考によつてゐなければならない。いくら霊的なものを感知したと言つても、その観察と把握が非論理的(感情的、印象的)なものであつてはならないわけです。
一方、通常の五感しか持たない者であつても、純粋に論理的な思考ができる者であれば、その思考を通して霊的なものを理解することができる。可能性としては万人に道が開かれてゐると言つていゝでせう。
純粋に論理的な思考は、超感覚者にも通常感覚者にも必要であり、かつ、両者の間をつなぐのもこの思考だといふことになります。
とすると、最も厄介なのは純粋に論理的な思考を持たない通常感覚者です。
例へば、
「目に見えないものなどあるものか」
と頭から思ひ込んでゐる人。
あるいは、
「いくら論理的であらうと目に見えないものは対象にならない」
といふ態度の頑迷な科学者。
さういふ人は、氷を知覚することはできても、氷になる前の(あるいは今なほ氷の奥に隠されてゐる)水については知覚する道がないのです。
私自身はどうかと言へば、立ち位置は「通常感覚者」。しかし「純粋に論理的な思考」の持ち主かと自問すると、完全な自信はない。また、シュタイナーの言説が「純粋に論理的な思考」で成り立つてゐるかどうかも、判定しかねる。ただ、彼が論理的であることに細心の神経を使つてゐることだけは感じます。
『原理講論』は
「新しい真理は宗教と科学とを統一したものでなくてはならない」
と主張します。
これはシュタイナーの言ひ方では、
「超感覚者が見たものを純粋に論理的な言葉で書き記せば、どんな通常感覚者でも論理的にそれを理解し、いづれ両者は同じ見解で出会うことができる」
といふことでせう。
それなら、『原理講論』は純粋に論理的な言葉で書かれてゐるか。シュタイナー同様、さう努めようとしてゐるのは確かです。しかし例へば、かういふ記述はどう理解したらいゝのでせうか。
神は人間を創造するとき
「我々のかたちに象つて」
と言はれた。
この「我々」とは神と天使たちとを総称して語つた言葉であると言ふのです。さらには、人間始祖が生活を始めたところへ天使の一人が現れ、女性を誘惑して罪を犯させたとも断定する。
これを通常感覚者は論理的な言葉として受け入れることができるでせうか。実際には、理知的な人ほど、こゝで躓くことが多いのです。
これは難しいところだと思ふ。ただこゝで通常感覚者が心を閉じないで理解をしようとすれば、道は残る。
氷は水が固まつたものです。通常感覚者はこの氷だけを相手にしてでも、その様子をつぶさに観察すれば、
「元の水はこんなふうであつたかもしれない」
と推測することはできます。
始祖が天使と罪を犯した(水)といふなら、その結果、我々の姿(氷)はそれを立証してゐるかどうか。そこを純粋論理で突き詰めていくのです。
突き詰めていくと、
「さうであつたとしても、おかしくはない」
「その可能性がないとは言へない」
といふところまでは到達するでせう。
しかし、通常感覚ではそこまでしか行けない。あくまでも霊的世界は見えないのです。それでも、希望はある。次のやうなシュタイナーの励ましの言葉があります。
感覚的なものは、それ自身によっては超感覚的な事象にいたることはできない。しかしこの(純粋に論理的な)思考が、超感覚的な直観を通して物語られた、超感覚的な経過に向けられるならば、その思考の力は、自分自身(=純粋に論理的な思考の力自体)によって、超感覚的な世界の中にまで成長していく。 (『神秘学概論』) |

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