なぜ「甘受」がベストなのか
前回の記事「甘受したときにのみ幸いである」に関連して、もう少し書いてみようと思ひます。
『原理講論』の説明によると、地上人が抱へる何らかの罪を清算するために神は悪霊を彼に送つて、苦痛を与へることを許諾する。苦痛と言つても一様ではない。事故に遭ふ、病気になる、詐欺に遭ふ、事業が失敗する、人から誤解される、夫が家事を手伝つてくれない。いろいろあるでせう。
いづれにせよ、このとき地上人が受けた苦痛を「甘受」すれば、それを条件として罪を清算するといふわけです。そして地上人だけでなく、彼と同時に、苦痛を与へた悪霊までも恩恵を与へて救済しようとなさる。神の驚くべき深謀遠慮と言へます。
この説明は、私にはなかなか理に適つてゐるやうに思はれます。ところが厄介なことに、目には見えない。神も見えなければ、悪霊も見えない。その見えない霊的存在が地上人に作用してゐると言つても、それを証明することはできない。見えるのはただ、私に起こつてきた「苦痛」だけなのです。
さうであれば、どんな絶妙な説明がなされやうと、結局私にできるのはその苦痛にどう対処するかといふことだけです。ただ苦痛に耐へるか、取り除く工夫をするか、苦痛を与へる相手に復讐するか、それとも甘受するか。それらいくつもの選択肢の中からどれを採用するかです。
その選択に当たつて『原理講論』は
「甘受といふ選択肢が最も賢明ですよ」
と提案する。
そしてその賢明である理由を説明しようとして、悪霊の話を持ち出すのです。
この説明を信じれば、確かに「甘受」がベストだと思はれてくるし、「甘受」をするときの心の支へにもなるでせう。しかし問題なのは、見えないものを信じなければならないといふことなのです。
そこで私は、
「見えないものを信じなくても、自ら自然に『甘受』を選択する術はないだらうか」
と考へてみたい。
人生には大小さまざまな苦痛が絶え間なく訪れてくるものです。状況から不可避的に起こる苦痛もあるでせう。誰かの悪意によつて意図的にもたらされたやうに感じる苦痛もあるでせう。それがどんな由来の苦痛であるかにかかはらず、あるいは神の意図も悪霊の意図も関係なく、私が「甘受」こそ最善の方法と思つて採用できる方法。それがあるなら、見えないものを信じる必要はないでせう。
その方法とは、自分の良心に問ふてみるといふ方法です。
「私はこの苦痛にどう対処するのが、自分にとつて最も益になると感ずるだらうか? 嫌々ながら耐へることか。相手に復讐することか。便宜的に和らげることか、それとも甘受することか」
さう問ふて、もし「復讐することだ」と良心が言つてくると思へば、その通りにしてみればよい。そして実際に復讐を果たしてみて、自分の良心は満足するかどうか。それを冷静に観察してみる。
もしもそれでは良心が満足しないやうであれば、その方法は最善ではなかつたと判断できます。そのときはまた別の方法を試してみる必要がある。
そのやうにしてみると、苦痛が悪霊の再臨復活現象であるか否かはどうでもよい。神の意図や悪霊の意図などを斟酌する必要はなくなります。むしろ、苦痛とは自分と良心との純粋に内面的な対話の場としての意味を思つてくるのです。
良心の声は、初めの内、弱くて小さい。一方、「自我」の声はやたらと大きいのです。だから最初良心の声だと思つたものも、実は自我が良心を装つて主張した声だつたかもしれない。
自我は常識を武器とし、損得感情をうまく隠して、いかにも正当を装つて語りかける。これを見破るには、真摯に何度も良心との内面的な対話を繰り返す必要があります。
良心が主導権を握るやうになれば、そのときには『原理講論』の説明も不要になるでせう。

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