「甘受」したときにのみ幸いである
精神や魂、あるいは霊性などを重んじる人たちの間では、ある行為においてよ「動機」をより重んじる傾向があると思ふ。しかし考へてみると、神は「動機」よりも「結果」を重んじる、あるいは敢へて「動機」を無視するかたであるやうにも思へるのです。
その根拠は、『原理講論』の「復活論」にある「悪霊の再臨復活現象」にあります。
神が我々を救済したいと切望しておられるのは間違ひないとしても、その遂行は決して容易ではない。我々に何らかの罪が残つてゐる限り、神は思ひのまゝに摂理することができないのです。
それで次のやうな手段を講ずる場合がしばしばある。
神は霊界の悪霊を選び、彼を救済対象の地上人のもとに送る。そして悪霊の思ひのまゝに地上人に苦痛を与へさせる。悪霊ですから、もとより「善なる動機」はない。自分の受けた苦痛の恨みを晴らさうとして地上人を苦しめるのです。
ところがこのとき、もしもその地上人が自分の受けた苦痛を「受けて当然のこと」として「甘受」したら、どうなるか。神はそれを善の条件として地上人の罪を清算してやらうとなさる。
そればかりではない。このとき神は地上人だけでなく、彼に苦痛を与へた悪霊にまでも同様な恩恵を与へる。悪霊は地上人を助けようとしたのではないのに、結果的には悪霊のお蔭で地上人は条件を立てることができた。
これを見ると、神は悪霊の行為の「動機」よりも「結果」を優先させてゐるのです。「結果」が良ければ「動機」は不問に付すと言つてもいゝ。
神から見て、どうせこの世の人間で「動機」が絶対善などといふ者はゐやうはずがない。それなら「動機」は横にさておいて、善の「結果」だけを見てそれを評価しよう。さういふ戦略、あるいは親心です。
ところで、この戦略において絶対不可欠なものがあります。それが「悪の動機」を「善の結果」に変へる変換装置です。これが何かといふと、地上人の「甘受」なのです。
この「甘受」といふ変換装置、これがないと神がいくら「動機」を捨てて「結果」を取らうとしても、摂理はうまく進まない。仮令進んで行くにしても、要する時間がよほど長くなるでせう。
さう考へると、神はその摂理を促進化するにおいて、「甘受」する人を求めざるを得ない。それで「これは」といふ人を見つけたら、彼のところへ悪霊を送つてみる。そして期待通りいけば、神は「悪の動機」に目をつぶつて「善の結果」だけを収穫するのです。
それなら、神には「甘受」する人ができるだけ多く必要です。我々は「甘受」する人を目指さなくてはならない。
どうしたら私は「甘受」する人に近づけるでせうか。
「善か悪か」「正しいか間違ひか」といふ判断基準を潔く手放す必要があります。この基準があると、自分が「悪だ、間違つてゐる」と思ふ苦痛を「甘受」できない。
「悪」と「間違ひ」を手放すといふことは、「善」と「正しい」だけを手元に残すといふことです。これはどんなことでも無条件に「善」であり「正しい」と受け入れるといふことです。あるいは、「善も悪もない」「正しいも間違ひもない」と思ひ込んでもいゝ。
これは常識的な立場から見ると、とても難しいことでせう。「悪(と自分が思ふこと)」をされたらやり返さずには心がおさまらないのが我々です。しかしイエス様はこのことを明確に指摘しておられます。
私のために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って悪口を言うときには、(それを甘受したときにのみ)あなたがたはさいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。 (マタイ福音書5:11-12) |
もし、誰かがあなたの右の頬を打つなら、(それを甘受して)他の頬も向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、(それを甘受して)上着をも与えなさい。 (マタイ福音書:39-40) |

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