当てにならない語り手
小説における「当てにならない語り手問題」といふのがあるさうです。茂木健一郎さんはこのことに触れて、いくつかの例を挙げてゐます。
例へば、カフカの『変身』。ある朝、主人公が目覚めると自分が虫に変身してゐたといふ奇抜な設定の小説です。彼自身は自分が虫になつてゐると主張し、また傍証もあるのですが、彼の主張は信じられるのか。もしかしてすべてが幻想だといふ可能性だつてある。
あるいは芥川龍之介の『藪の中』。昔藪の中で他殺体が発見され、3人の容疑者が挙げられ、4人が目撃者として証言する。ところが彼らの証言がそれぞれに矛盾し錯綜してゐるのです。それで結局は誰の証言が正しいのか確証を得られない。まさに「藪の中」なのです。
これらは「当てにならない」といふ点では極端な例ですが、この問題はおよそあらゆる小説で考へることができます。
これも茂木さんが挙げてゐる例ですが、夏目漱石の『坊ちゃん』。この小説の主人公は坊ちゃん。それ以外の登場人物はみな彼の目を通して描かれてゐる。赤シャツはハイカラだが陰湿、うらなりは消極的でお人よし、マドンナは美人だがおきゃんなどといふふうに。
しかしかういふ人物像は坊ちゃんの目を通して見たからさうなので、本当に彼らがさうであつたといふ確証はない。主人公が別人物であつたら、たぶん彼らの人物像も違つたものになつてゐた可能性は大いにあるでせう。
小説家にしてみれば、まづ誰を主人公にして語らせるかでその小説世界が大方決まる。その世界は主人公の主観世界であるが、さらにその奥を見れば作家本人の主観世界だとも言へます。作家がその主人公を作り、彼をして語らせてゐるのですから。
坊ちゃんは赤シャツを「ハイカラだが陰湿」と描いたが、赤シャツ自身は自分をハイカラとも陰湿とも思つてゐなかつたかもしれない。いや、その可能性がよほど高いでせう。
それにそもそもハイカラと言ひ陰湿と言ふけれど、一体何がどんなふうであればハイカラであり陰湿なのか。その評価基準は専ら坊ちゃん自身の主観に属してゐるものでせう。
それでも漱石がそのやうに描けば、読者は「赤シャツとはさういふ奴だ」と信じ込んで小説の中に没入する。そもそもそれ以外の姿の赤シャツは描かれないから、坊ちゃん(漱石)の目が読者自身の目になるのです。
さう考へていくと、これは小説の世界だけではない。私の人生においてもこの「当てにならない語り手問題」はあると思はれてきます。私の人生における「当てにならない語り手」とは、他ならぬ私自身です。
私といふ人間は私の人生を語る語り手として、本当に当てになる主人公なのであらうか。さういふ疑問が立ち現れてくるのです。
私も日常の中でいろいろな人と出会ひ、その人たちを自分の目を通して描いて(評価して)ゐる。しかし私が描くその人物像は、どれほど当てになるのだらうか。正しいのか間違つてゐるのかといふ前に、そもそも正しい、間違ひといふこと自体があるのだらうか。
「あの人は気取つてゐる」
「あの人は自分勝手だ」
「あの人は思慮深い」
などと、いろいろに私は相手を描き出しますが、さういふ評価は相手に元来備はつてゐる「もの」ではない。相手はただ、自分が振る舞へるやうに振る舞つてゐるだけといふのが真実でせう。その振る舞ひはその人にとつての「こと(現象)」なのです。その「こと」をどのやうに評価するかは、ひとえに私の主観にかかつてゐる。
前の記事「あるがまゝに見ることのできる自分」でも書いた通り、さういふとき私は相手を見てゐるのではなく、私自身を見てゐるのです。そのことを自覚しない限り、私はつねに「当てにならない語り手」であり続けると思ふ。

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