「あるがまゝ」に見ることのできる自分
我々には五感があつて絶えず外界の情報を収集してゐますが、その中でも視覚情報が最も多い。全情報の8割から9割近いやうです。
五感から入つてきた情報のほとんどは脳で処理されるのでせう。処理されて初めて、我々はその情報を認知する。ふつう我々は外界そのものを認知してゐると思つてゐますが、実はさうではない。脳で処理された情報を認知してゐるのです。
例へば、目の前に薔薇を見てゐるとします。
花びらのみずみずしい赤色。艶やかな葉つぱの緑。鋭くて痛さうな棘。この薔薇はあまりにも生々しくて、今自分の目の前にあるそれ自体を見てゐる。さう思ひますね。
しかし本当に見てゐるのは、脳によつて処理された情報としての薔薇なのです。するとこゝで、ちよつと厄介なことが起こつてゐる。
私は純粋に薔薇そのものを見てゐると思つてゐるのに、その実、処理の際に紛れ込んださまざまな付随情報がまとはりついてゐるのです。
例へば、過去に見た薔薇と比較しながら、
「あのときの薔薇のほうがもつときれいだつたなあ」
などと、我知らず相対評価してゐたりする。
あるいは
「これを摘んで居間に飾つたら映えるだらうな」
などと想像してみたりもする。
そんなふうに、きれいだとかさうでないとか、役に立つとか立たないとか、いろいろな評価や価値判断が付随しながら薔薇を見る。付随情報なしに薔薇そのものを見ることは極めてむつかしい。
これはどういふことか。我々は自分の外のものの姿を見てゐると思つてゐるが、実際には自分の内面の反映を見てゐるのです。薔薇ではなく自分自身を見てゐると言つても過言ではない。
これはもちろん、薔薇に限つたことではない。
人を見るときは、薔薇などより遥かに付随情報は多いのです。とてもその人自体を見てゐるとは言へない。まさにその人を通して私自身を見てゐるのです。
例へば、街を歩けばいろいろな人と行き交ひます。その服装、歩き方、持ち物、風貌などをチラリと見ただけで、私の中には実にさまざまな付随情報が次々に湧き上がつてくるのを感じるでせう。
「いでたちが貧層だ。外見にあまり構はない人だな」
「髭は立派だが、ちよつと傲慢な人に違ひない」
「あの旦那さんは奥さんに頭が上がらないやうだな」
さういふ情報のほとんどは相手からではなく、私自身の中から立ち上がつてくるものです。自分では正しく推察してゐるやうに思つてゐるのですが、それは自分の内面を映してゐるだけで、当てにはならない。
といふより、さういふときは、単に私の内面を映してゐるだけだといふことを自覚して、その内面を改める努力をすべきチャンスだと思ふのです。
人の欠点を見て批判してしまふ。自分と比べて見下げてしまふ。高級さうな持ち物を見て羨ましく思ふ。さういふことのすべてが、少し大袈裟に言へば、私が担当して清算すべき「蕩減情報」の現れなのです。
街ですれ違ふ人はもとより、毎日顔を合はせる馴染みの人は余計に、「あるがまゝ」に見ることのできる自分。これを創つていく責任が自分自身にあります。

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