天国人にならうとする人
「天国を創らうとする人は、天国を創れない」
といふ考へが、あるとき、フッと浮かんできたのです。
それなら、どういふ人が天国を創れるのだらうと思つてゐると、
「私が天国人にならうとする人だけが、天国を創れる」
といふ答へのやうなものが返つてくる。
この問答が自分の内面でなされたあと、
「これはどういふことだらう? 本当にその通りだらうか?」
と、今度は理性的にその是非を確認しようと思案する。
「天国を創らうとする人」と「天国人にならうとする人」とは、どこがどう違ふのでせうか。前者について、まづ思ひ浮かぶのは共産主義者です。
彼らはもちろん「天国」などといふ語彙は使はない。共産主義は元々キリスト教に根を持ち、それへのアンチとして生まれてきたものです。だからキリスト教が標榜する「天国」などとは絶対言はず、「共産主義社会」と称する。
いづれにせよ、彼らはその社会を理想として掲げ、実現しようと取り組んだにも拘らず、100年あまりたつてみると、その理想社会の建設にはまつたく失敗したと言ふしかない。なぜ失敗に終はつたのか。「天国(理想の共産主義社会)を創らうとした」からに他ならないと思はれます。
「天国を創らう」とする人たちは、どういふ人か。「自分」は変はらずに「社会」を変へようとする人です。「社会」は「自分たちを取り囲む環境の枠組み」と言つてもいゝでせう。
さういふ人たちの最も大きなネックは
「自分が変はらうとしないこと」
なのです。
さういふ人たちが共産主義思想ではなく宗教的な理想を抱いて仮令数十年数百年頑張つたとしても、理想はやはり実現しない。「理想」の本質を初めから見間違へてゐるからです。
一方、「私が天国人にならうとする人」は、「理想」の本質を正しく理解してゐます。「理想」はまづ自分自身がその「理想」の実体になることなしには絶対に実現しないこと、自分を取り囲む環境をいくら改変してもそれだけではだめなことを、よく分かつてゐるのです。
聖書に有名なイエスの言葉が記録されてゐます。
神の国は、見えるかたちで来るものではない。また「見よ、こゝにある」「あそこにある」などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。 (ルカ福音書17:20-21) |
この言葉は、質問者への考慮や当時の社会事情などを度外視して、言葉そのまゝに受け取るのが一番よいと思ふ。
「神の国」すなはち「天国」は、見えるかたち(枠組みから)では絶対に創られない。天国人が住んでもゐない空間を指して「こゝにできてゐる」とか「あそこにできてゐる」とも絶対に言へない。天国はただ、あなた自身が天国人になることによつてのみ創られる。
さうすると、イエスの言葉は我々に対する厳しい警句にもなります。
キリスト教が(あるいは他のいかなる宗教であらうと)いくら広まつたとしても、それだけでは決してあなたがたは天国を創ることはできまい。天国を創る唯一の方法、それはあなた自身が「天国人」になることだけである。あなたには、それができるか? 私があなたを救つて天国に連れて行くなど、夢にもできない話だ。

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