誰が神の偶像か
あなたは自分のために刻んだ像を作ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるもののいかなる形も。あなたはそれにひれ伏しても、それらに仕えさせられてもならない。 (『出エジプト記』20:4-5) |
旧約聖書の中でもよく知られる「モーセの十戒」の第2戒です。「刻んだ像」を「偶像」と言ひ、それを拝むことを「偶像崇拝」と呼んで、厳しく戒めてゐます。
偶像を作ること、それを拝むことを、どうして十戒の一つに入れるほどに厳しく戒めるのか。それを考へることは、神と我々との関係の在り方を考へる上で有益かもしれない。
最近「ChatGPT」といふ対話型テキスト生成のボットがかなりの話題を呼んでゐます。私は人づてに聞くだけで、まだ自分で使つてみたこともないのですが、かなりの高性能で、数年以内にはグーグルが築きあげてきた検索帝国を破壊するほどの力があるといふ人もゐるやうです。
何でもいゝから質問の文章を入力すると、ChatGPTが即座に文章で回答を返してくれる。しかもその文章は極めて自然で、人間が作つたものとほぼ判別がつかない。
どうやつて答へを生成するか。現時点では2021年までにデジタル化されてゐるあらゆる文字情報をインプットしており、人類の叡智ともいふべき膨大な情報をもとに最適回答を生成するらしい。
だからこれを茂木健一郎さんは
「究極の優等生」
と呼んでゐます。
それに対して我々人間は、どんなに頭がいゝといつたところで、頭に蓄へた知識情報には限りがある。しかも人それぞれの個性と好みによつてその知識には偏りもある。ChatGPTのやうにあらゆる分野の情報を瞬時に渉猟し尽くして回答をまとめるといふやうな芸当は到底できない。
さういふ点では、人間は絶対ChatGPTには敵はないが、しかしそこにこそ人間の強みもあると、茂木さんは言ふのです。私もその通りだと思ふ。
偶像の話から急にChatGPTの話を出したのも、この点を考へてのことです。ChatGPTと生身の人間との関係は、神と人間との関係に似てゐるところがあるやうな気がする。
ChatGPTがそれほど優れたボットなら、人間の知識や価値判断は不要になるか。決してそんなことはないでせう。人間の知識にも判断にも個性の偏りがある。そのことこそ、むしろ人間の強みであり価値でもあると思へるのです。
ChatGPTは過去の文字情報には神的に強い反面、この世界を自ら探索することはできない。花の匂ひを嗅ぎ、風の爽やかさを肌で感じ、人の息遣ひからその人の気持ちを読み取る。さういふことはできないのです。
できるのはただ、人間によつてデジタル化された文字情報にアクセスして、それを整理したり抽出することだけです。しかも文字情報が増え、それの検索機能が高まれば高まるほど、ChatGPTには「情報の偏り」といふ一種の個性はたぶん限りなく消失するでせう。
神をChatGPTに比較するのはまづいかもしれない。しかし、神にも、ある意味で個性がないのです。神にはあらゆる要素が内包されてゐるので、個性といふ偏りがない。
その神の偶像を作るといふのは、神をある特定の個性に限定するといふことでせう。金の子牛を作つて「これが我々を導く神だ」と言へば、神はさういふものに矮小化されてしまふ。
敢へて言ふなら、我々一人一人が偶像つまり「神の刻んだ像」なのです。我々自身がすでに偶像であるのに、どうしてそれとは別に新たな偶像を作る必要があるのか。
そこで、モーセの第2戒をもう少し詳細に読み取つてみませう。
私の中の膨大な要素のごく一部を特別に注いで「あなた」といふ像を刻んで創造した。だから「あなた」には「あなた」にしかない個性といふ偏りがある。その偏りこそが「あなた」のかけがえのない価値だ。 私自身はあらゆる個性を内包してゐるといふ意味で個性のない存在であり、それゆゑ私についてのいかなる像も刻むことはできない。その代はりに「あなた」といふ像を刻んだのだから、「あなた」の他に「これが神だ」と言つて像を刻む必要もなく、また刻むべきでもない。「あなた」自身が神のかけがえのない偶像だといふことをはつきりと自覚しなさい。どんな偶像を作らうと、「あなた」以上に素晴らしく、価値のある偶像はあり得ない。 |

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