感謝は道を開くか
夫が長く勤めた会社が別の大きな別の会社に買ひ取られることになり、その社員が全員解雇されることになつた。不測の事態に気をもんだ奥さんがあるかたに相談したところ、その人は短くかうアドバイスしてくれたさうです。
あなたは今ご主人のリストラだけを心配しておられるけど、考へてみたら、ご主人はありがたい人だよね。毎月何十万も稼いでゐながら、自分の小遣ひはわづか数万で文句も言はず、働きつづけてきてくれたんでしよ。こゝは一度、長い間ありがたうつて、ご主人に感謝したらどうかな。 |
言はれてみるとなるほどさうだなと奥さんは思つた。
それで夫が仕事から帰つてくると、少しかしこまつて、
「あなた、長い間私たち家族のために一生懸命働いてくださつてありがたう。あなたのお蔭で私も子どもたちも今日まで大過なく生活してこれました」
とお礼を言つた。
その会社は全員を解雇する前、全員と個別に面談をしたさうです。その面談で件の男性は正直な気持ちを打ち明けた。
「長い間勤めさせてもらつたお蔭で、私も家族も不自由なく暮らして来れました。妻も私もこの会社にはとても感謝してゐます」
その会社は退職金をそれなりに出してくれたのか。次の仕事を何か斡旋してくれたのか。そのへんの事情は分からない。しかしともかく、その男性は自分を会社の事情でリストラした会社に感謝したのです。
解雇されて間もなく、その男性は会社から連絡を受けた。一度来てくれといふのです。何だらうと思つて行つてみると、予想に反して呼ばれたのは自分だけだつた。そこには新しい会社の役員と、先に自分を解雇面談してくれた人がゐて、かう言つてきた。
「あなたのご家族もあなたご自身も会社への思ひが素晴らしいので、ぜひ新しい会社で社員教育を担当してくださいませんか」
と就職を打診されたのです。
まつたく思ひがけないオファーだつたが、彼は快諾し、解雇から間をおかずして新しい仕事を得た。しかも給料は前の倍になつたのです。
この話、どんな事態も感謝で受け止めれば、思ひがけない道が開ける。しかも以前よりも事態がづつと良くなる。さういふ教訓話と受け取つても悪くはないが、もう少しだけ深読みしてみませう。
この話のポイントは、感謝をしたから道が開けたといふところにあるのではない。突然の解雇といふ事態を感謝で受け止めた。そこにより深い人生の機微があるやうに思ひます。
いや、より正確に言へば、解雇がありがたいのではない。それはどう考へたつて困ることだ。しかしアドバイスの主は「そこを見ないほうがいゝ」と言つたのです。
解雇されたことではなく、解雇されるまでに会社から受けた恩恵に目を向けたらどうか。さう言はれて、夫婦はハッと気づいたのです。
解雇に目を向けたら「こつちの事情も考へずに勝手なことを」と腹を立てるしかない。しかし解雇までの数十年に目を向ければ、会社は毎月滞りなく給料を払ひ続けてくれてゐた。豪邸が建てられるほどの給料ではなかつたとしても、会社は絶えず利益を出し続け、社員を捨てなかつたのです。
もしかすると社長は不当に多い収入を懐に入れてゐたかもしれない。経営戦略の不備で会社を傾かせたのかもしれない。それはそれで問題点を指摘すべき面があつたとしても、感謝するといふのはさういふ全体的な客観的事象とはレイヤー(層)が違ふやうな気がする。
環境にいろいろな不正や奸計があつたとしても、そしてそのせいで自分が不利益を被り苦痛を受けてゐたとしても、それでもなほ、私は何とか生きてゐる。とすれば、私を生かしてゐる何らかの力が働いてゐることも確かなことでせう。それがあるのなら、少なくともそれには感謝してもおかしなことではない。
多分誰でもかういふ事情の中に生きてゐる。例外はないでせう。さうでありながら、大多数の人は自分を苦しめてゐる事情に目を奪はれて生きてしまひやすい。だからその目を私を生かしてくれてゐる事情のほうに転じてみようといふのです。
自分を苦しめる事情を自分の努力によつて好転させ、不正を駆逐することができれば、その暁には感謝もできる。さういふ考へもあるでせう。その意気やよし。ただ、自分を苦しめる事情と並行して必ず自分を生かす事情も隠れるやうにして存在するはずだ。それを見落としてゐないかと自問してみることは、決して無駄なことではないと思ふ。
件の男性に思ひがけない道が開けたのは感謝したからかと言へば、さうではないかもしれない。道を開くために感謝するのでもない。
感謝できる事情を見出しそれを正当にあるがまゝ評価することで、彼は彼本来のあるべき姿に立ち戻つた。自分が本来の姿に戻れば環境もそれに合はせて本来のものになる。さういふ原理ではないでせうか。
しかし原理だとしても、つねにそのやうにできるかと言へば、なかなか容易なことではない。かういふ話を聞くことで、ハッと我に還るのです。

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