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包みつゝ包まれる

kitasendo
年輪

福岡伸一、西田哲学を読む』の中で、福岡氏の対談相手である池田善昭氏が「逆限定」といふ概念を紹介してゐます。

池田氏は西田哲学つまり西田幾多郎の構築した独自の哲学の研究者。「逆限定」とは西田哲学の述語です。

生命は環境に包まれながら、逆に環境を包んでゐるといふ、その働きを指して、西田は「逆限定」と言ふ。西田哲学に不慣れな者には判りにくいので、池田氏はいつくか実例を挙げます。

例へば、今西錦二の「棲み分け理論」。

カゲロウは川の流れの速さに合はせて、その形態が異なる。ダーウィンなら環境が生物に「選択圧」を与へることを主に考へるところでせう。しかし今西はカゲロウが環境を認識することに主眼を置いて理論を立てるのです。

それを池田氏は
「カゲロウは川の流れといふ生息場所に包まれながら、カゲロウ自体はその流れを包んでもゐる」
と表現する。

池田氏が挙げるもう一つ別の例。

年輪といふものがある。何十年何百年といふ時間の流れの中で年輪が刻まれる。時間が年輪といふ空間を限定する。これは時間が年輪を包むと言へます。

ところが考へてみると、年輪を調べれば過ぎ去つた昔の気温や宇宙線の注ぎ方までが分かる。その意味で年輪といふ空間の中に時間が逆限定される。これは空間が時間を包むと言へます。

これらの例をまとめて、
「環境と生命はお互ひに、包みつゝ包まれる関係にある」
と言ひ表せると池田氏は言ふのです。

二つのもの、これを主体と対象と言ひませうか、これらが互ひに「包みつゝ包まれる」関係である。面白い着想だなとは思ひながらも、こんなことを考へる意義はどこにあるのか。当初はピンとこなかつたのですが、時間がたつにつれて、あることに思ひ至つたのです。

「これは神の創造における根源的な原理ではないか」

例へば、こんなふうに言へるのではないかと思ふのです。

  • 神自身における本性相(本陽性)と本形状(本陰性)とは、互ひに包みつゝ包まれる関係である。
  • 「神と被造物特に人間とは、互ひに包みつゝ包まれる関係である。
  • 人間の男性と女性とは、互ひに包みつゝ包まれる関係である。

私の考への及ぶ範囲で、このことを考へてみませう。

男性と女性の関係を考へてみたとき、肉体的な愛の関係では女性が男性を包み込む構造になつてゐます。それで女性の立場から言へば、「包みつゝ包まれる」の「包む」ほうは肉体的に実現できるやうになつてゐる。それなら「包まれる」ほうはどのやうに叶ふのか。これは男性の方からも考へてみる必要があります。

男性は肉体的には「包まれる」立場です。そしてこの「包まれる」ことへの願望こそ、男性の性欲の本質的な正体ではないかと思はれる。つまり、女性の「包みたい」欲望と、男性の「包まれたい」欲望は、肉体を土台として果たすことができます。

一方、男性の「包みたい」欲望と女性の「包まれたい」欲望は、どう実現するのか。これはより全体的に(実生活で、精神的あるいは霊的に)果たすやうになるのです。

男性は肉体的には女性に「包まれ」ながら、例へば、金銭的に責任を持ち、困難を率先して受け持つなどして女性を「包む」。女性はその男性の「包む愛」によつて「包まれたい欲望」が満たされ、喜びを感じる。

このやうにして、男女それぞれの「包みつゝ包まれる」といふ願ひが果たされるやうになります。

ところで、男性が女性に「包まれる」ことを願ふ性欲の源を探ると、それは神にある。神自身が「包まれたい」といふ強い願望を抱かれたので「包む存在」としての女性を構想し創造したと思はれるのです。

そのやうに考へる根拠は、聖書にもある
「男は神のかたちであり、栄光である」(コリント前書11:7)
といふ創造の原則です。

神は男性をご自身の実体として構想し、その男性を「包む」実体として女性を構想した。それで男女の愛の器官は今のやうな形になつてゐると思はれます。

文先生はあるとき
「性欲はいかなる理性の力によつても制御できない」
と言はれたことがあります。

これは男性の「包まれたい」欲望が神に由来し、神自身その欲望のゆゑにこの天地を創造し、人間の男女を創造したほどに抑へがたいものであつたといふことです。

さう考へると、神と人間との関係も「包みつゝ包まれる」といふ関係であることが分かります。神は創造主としては人間を「包む」存在でありながら、創造の動機から見れば人間に「包まれたい」願望を抱いておられたといふことです。

ただ、一つ付け加へておくべきことがあります。

「男は神のかたちであり、栄光である」
といふとき、「男だけ」がさうだといふ意味ではない。

神の中には「男のかたち」と同時に「女のかたち」もあつた。それゆゑ、神自身の中において既に「包みつゝ包まれる」といふ内的な体験があつたと考へられます。ところがこの体験は内的なものなので、刺激としての限界がある。

文先生の言はれる
「自分と一つになつたものは感じられない」
といふ原理です。

内的な「包みつゝ包まれる」といふ体験をもつと強く永続的に味はふために、神は「自分の相対として永存する『自分ならざるもの』」を必要とした。それで「包まれつゝ包む」男性と、「包みつゝ包まれる」女性とを別の個体として創造したのだと思はれるのです。


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Admin:kitasendo