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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

変はらない字句、変はる解釈

2023/01/31
信仰で生きる 0
原理講論 仏教 親鸞 釈迦
経典

善知識にあふこともおしふることもまたかたし。
よくきくこともかたければ、信ずることもなほかたし。
真の知識にあふことは、かたきが中になほかたし。
(『浄土和讃』親鸞聖人)

「知識」とは今とは違ひ、「教師」のことを言ひます。それで「善知識」とは「正しく教へる導師」といふ意味です。

仏教において「善知識」の元祖はお釈迦様でせう。その教へは数多くの経典に残されてゐる。しかしその経典自体、お釈迦様が自ら書かれたものではない。その経典をもとにお釈迦様の教へを正しく教へることが果たしてどれだけ可能か。

だから「善知識にあふこと」も「教へること」も「正しく聞くこと」も「信じることも」難しいといふのです。しかしこゝで、いささか疑問に思ふことがある。

「善知識」と言ひ「真の知識」と言ふけれども、それが「善」であり「真」の教師であると、聞く者がどうやつて判別するのでせうか。教へを受けながら「これは正しい」と判断するには、聞く人の中に「正しいことの基準」がなければならない。学ぶ人は何が正しいか知らないから学ぶのに、その人が「善」や「真」を見分けられるといふのは論理矛盾のやうにも思はれます。

しかし矛盾のやうではあつても、これが「学ぶ」といふことの唯一の道でもあるでせう。特に信仰の道においては不可避なことと思はれます。

今聞く教へが本当に「正しい」かどうか、それを学ぶときは、それを一旦「正しいこと」として学ぶ。そして学ぶうちに、いろいろなことが見えてくる。

新しいものが見えてきたときに改めて
「これは本当に正しいだらうか?」
と自問してみる。

そのやうに絶えず今自分が到達したところで「善」や「真」を吟味してみる。そのやうに進んでみると、どこまでも「善」「真」と思へるものはきわめて少ない。それが冒頭の和讃の趣旨かと思へます。

仏教には数多くの経典がある。その一言一句はすでにはるか昔に固定され、変はることも変へることも基本的にはできない。その変はらないものを相手に自分が「正しいもの」を求めていくとは、自分が変はること以外にないでせう。

もう少し厳密に言へば、かうです。

経典の字句は不変であるが、その解釈はいくらでも変はり得る。それはつまり、解釈をする私が変はるといふことです。

経典に心があるとすれば、かう言ふかもしれない。

「私は変はらない。変はらない私をあなたはどう解釈するか。より正しい解釈をすれば、あなたはそれだけ成長する」

原理講論』にもこれと同様なことが言へる気がします。

これは文鮮明先生の自筆の書と説教をもとに、数名の弟子たちが体系的にまとめたものです。しかしその内容は、一字一句まで文先生の裁定を受けてゐる。

そして文先生は、
「これは神の裁定を仰いでゐる。自分なりに一字一句も変へてはならない」
と厳命しておられるのです。

明らかに事実誤認ではないかと思はれる箇所があるやうに見えたとしても、あるいは今後さういふ箇所が出てきたとしても、それでも変へてはならない。不合理に思へても、それが神の裁定であるなら、私などがとやかく言ふべき筋のことではない。

しかし字句は変へるなと言ふ一方で、解釈を変へるなとは言はれない。なぜ言はれないかと言へば、解釈はもともと人によつて千差万別で統制のしやうがないし、強制のしやうもない。解釈は本質的に、その人の内面の自由に属することです。

だから『原理講論』もたぶん
「私は変はらない。変はらない私をあなたはどう解釈するか。より正しい解釈をすれば、あなたはそれだけ成長する」
と言つてゐると思ふ。

逆に言へば、もし昔も今も私の解釈が変はつてゐないとすれば、私はちつとも成長してゐない。さう言つてもおかしくないでせう。

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