記憶が霊人体を作る
我々の人生は、記憶を集積していくことだと言つてもいゝでせう。さまざまな体験をし、その都度それにまつはる感情が生まれる。それらすべてが記憶として積み重なつていくわけです。
記憶の中でも最も主要な長期記憶は一体どこに貯蔵されていくのか。脳研究が進むにつれて、脳の旧皮質にある「海馬」といふ器官が関係してゐることが分かつた。ところがさらに研究を進めると、海馬自体が記憶の最終的貯蔵庫ではないことも分かつてきたのです。
フランスの哲学者アンリ・ベルグソンは独自に研究した結果、
「脳細胞は記憶の貯蔵庫ではない。記憶が蘇ることをオーケストラに譬へるなら、脳細胞はそれを司るタクト(指揮棒)にすぎない」
と言つてゐます。
現代の脳科学もこの見解に概ね賛同してゐると言つていゝでせう。
歳をとるにつれて思ひ出せないことがふえる。しかしそれは昔の記憶が消失したといふことではない。記憶そのものは変質せずに残つてゐるとしても、それを呼び出す「タクト」の機能が衰へたために、うまく思ひ出せないだけだといふことになります。
しかしそれなら、膨大な記憶は脳細胞以外の一体どこに貯蔵されてゐるのか。それについては未だに「答へがない」。それが科学の現状のやうです。
よく聞く話で、人は死ぬ瞬間に自分の人生全体を走馬灯のやうに見るといふ。あるいは、あの世に行つてから同様のイベントが、今度は衆人環視の環境で起こるとも聞きます。それが本当であれば、人生の記憶はやはり1秒も失はれてゐないといふことでせう。
それなら、記憶は脳細胞ではなく霊的な体(霊人体)に貯蔵されてゐると推測されます。どのやうなかたちで貯蔵されるのでせうか。
こゝからは私の想像であり、仮説とも言へないほどのものですが、推論を展開してみませう。
初めは、DVDのやうに、霊的な体のどこかに情報として刻み込まれるのかと考へたこともある。しかしあれこれ思案してゐるうち、もつと直接的な方法で記録されるのではないかと思ふやうになつたのです。どういふことか。
霊人体の姿かたちそのものが記憶ではないか。つまり、記憶は霊人体のかたちとして保存される。新しい記憶が付け加はるごとに、霊人体のかたちがそれを正直に反映して変化していくのです。
肉体でもさういふことはあります。
例へば、長年農作業などの力仕事を続けると、手の指が太く、節くれ立つ。あるいは、年中同じ表情で暮らすと、特定の場所にシワが目立つやうになる。拘りなく自足して生きれば、知らず知らず福相になる。
それと似てゐて、恨み多い人生を送ると例へば霊人体の背骨が歪み、体全体が黒ずんでくる。怒りの多い人生を送ると目がつり上がり、寄りつき難い表情になる。愛欲に溺れすぎると、胸のあたりを中心に皮膚に淫靡なピンク色のまだら模様が現れる。
顔の容貌。体の姿勢。皮膚の色。さういつたものが全体で、先の世の人生を如実に反映した姿になるのです。だからあの世でその人の姿を一瞥しただけで、どんな人生を生きてきたかがたちどころに分かつてしまふ。
さう考へると、霊人体の姿が人生の記憶そのもの、あるいは記憶の完璧な反映体と言つてもいゝでせう。そしてそれを逆から考へれば、良くない記憶が消去されるか浄化されていくにつれ、霊人体の姿も正常な美しい姿に変はつて(回復して)いくのだと思はれます。

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