自分自身になりたい
銀行員になりたい人は銀行員になるし、法律家になりたい人は法律家になる。なりたいものがある人はそれになつて満足するが、自分自身になりたい人はどこに行つたらいゝのか分からない。 (『獄中記』オスカー・ワイルド) |
引用元は『獄中記』と書いたが、正直に言へば私が直にそれを読んだのではない。茂木健一郎氏のyoutube動画からの拝借です。
ワイルドはアイルランド生まれの文筆家で、1900年に46歳の若さで亡くなつてゐる。晩年には男色が咎められて投獄され、出獄はしたものの、失意のうちに没したと言はれる。『獄中記』の「獄」とはその投獄のことです。
茂木氏はワイルドを天才の一人と評価してゐるのですが、天才には天才独特の危うさがある。それに加へてワイルドは男色だつた。今のやうにLGBT運動もない時代です。よほど生きづらかつたに違ひない。
彼の仕事を見れば、詩人でもあり小説家でもあり、劇作家でもある。彼が心底さういふものになりたかつたのであれば、冒頭に引用したやうな一文は残さなかつたでせう。
彼が本当になりたかつたのは「自分自身」だつたのです。しかし遂に終生それになり切れず、失意のうちに46歳の短い人生を閉じたと想像することができます。
この一文によく似た言ひ方を小林秀雄がしてゐます。
人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたらう。軍人にもなれたらう。小説家にもなれたらう。しかし彼は彼以外のものにはなれなかつた。これは驚くべき事実である。 (『初期文芸論集』小林秀雄) |
よく似てはゐながらも、この二つは実はかなり意味合ひが違つてゐます。小林は、どんなものにでもなれるが、遂に自分自身以外のものにはなれないと言つてゐる。一方のワイルドは、自分自身になりたいと切望してゐるのにどうしてもなれない。さう嘆いてゐるのです。
私はどちらの言ひ分も分かる気がする。
小林の言ふうやうに、確かに私には「私」といふ他の何者とも溶け合へない確固たる何かがある。その「私」が仏教でいふ「小我」であらうと「真我」であらうと、ともかく「私」といふ確固たるものは否定できない。
ところが一方、ワイルドが嘆くやうに、詩を書き小説を書いて世に認められれば詩人とも呼ばれ小説家とも呼ばれる。しかし、どうしても「自分自身」になれた気はしない。それが余りにももどかしいのです。
彼がなりたいと願つた「自分自身」とは、一体どんな自分だつたのでせうか。
彼は男色であり、さる貴族の子息と恋仲になつた。それを貴族である父親は咎め、息子と切り離すために政治力を使つてワイルドを投獄に追いやつた。
男色では子孫が望めないではないか。キリスト教の教へに反するではないか。さういふ理屈はいくらでもあるでせう。しかし、自分の気持ちをその理屈で屈伏させようとしてもできない。理屈では説明しきれない願望が湧き上がる自分をどうしやうもない。
自分の願望を全面肯定できる自分。さういふ「自分自身」をワイルドは求めたのかもしれない。彼の内面に相当激しい葛藤があつたであらうことは想像できます。
しかしもう少し深く見つめれば、もつと深い願望があつたかもしれない。仏教でいふ「真我」、朧気ながらもこれを求めてゐたのではないかとも思へるのです。
「真我」。梵語では「アートマン」。キリスト教なら「生命の木」がこれに当たるのではないかと思ふ。
聖書によれば、人間始祖アダムが罪を犯したあと、神は彼をエバとともにエデンの園から追ひ出し、「生命の木」に至る道をケルビムと回る炎の剣で塞いだと記してあります。このことから、罪を犯す前のアダムの願ひが「生命の木」を得ることであつたといふことが分かります。
アダムの末裔である我々も、心の奥深くでは「生命の木」を得ることを願つてゐる。しかし願ひながらも、それが一体どんな姿のものであるのか、どうしたらそれを得る(それになる)ことができるのか分からずにゐるのです。
法律家であれば、それなりの知力と努力があればなれるでせう。しかし本当の自分自身である「生命の木」になることは果てしなくむつかしい。
その苦悩が、ワイルドの
「自分自身になりたい人はどこに行つたらいゝのか分からない」
といふ嘆息に現れているとも見ることができるでせう。

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